時のチカラによって自身の感情は解消されるのか否か・・・



「時のチカラ」についてはこのブログで書いたことがあるようなないような・・・

「時のチカラ」の説明をここでするのは、私の書きたいことから違う文脈へ流れていきそうなのでやめておく。

ひとつ言っておくなら、「時」という動きは「時計」という24時間の刻まれた時刻というものではないことは言っておきたい。
「時」は季節が移ろうなどの「経過」のことだ。
そこには主観も客観も共感も同時並列で存在している。

では、タイトルに書いたように「『時のチカラ』は自身の感情を解消するのか?」ということなのだが、
私は、これまで解消してくれるだろうと思っていた。
「時のチカラ」によって、様々な感情は言い方を変えると、癒され浄化され消えていくと・・・
そう思っていたのだ。

そんな位置付けでいたのだけれど、そうではないのかもしれないと先ほどハタと思わされた。

切欠は分からないのだが、電車での帰路の途中に、私がよしとしている集注感に身体が入りだした。
私の意志はそれに乗る。
すると友人達とのグループチャットにメッセージが届いておりそれを見た私は、話題の内容に対して(その友人にではない)、私が311の後に明確に強く抱き始めた、とても激しい怒りと絶望感が現れだした。
正直私はそれに驚いた。
もちろん、今でもその怒りや絶望感はもっていると認識してはいたのだが、もうあまり感情的にそれを現すことはしないように自分を組織してきたし、そのかつて抱いた感情の発露の仕方は、とても外部に向けられたもので、内省も同時にしてはいたのだが、その時の私は、外部へその感情をぶつけることによって、ある意味自分を慰めていたようにも感じている。きつく言えばガス抜きだ。
まあ、そのようなアプローチをしないと、自分を支えきれなかったとも思う。
そんな過程があって、今に至っているのだが、予想以上に先ほど自分の中に現れた感情が生々しく、激しいものであり、もしかしたら、それらの感情を抱き始めたときより、大きくなっているのではないかと思ったほどだ。(実際は分からないが)

そこで「時のチカラ」である。
上記にも書いたように、私は「時のチカラ」によって感情というものは解消されるものだと思っていた。
しかし、解消どころか、むしろ育っている感覚。

あれ? おかしいぞって私は思う。

この体験をする前に、ちょっとした伏線がある。
何気なくTwitterを見る。 
すると中村天風語録に目が留まる。 そこにはこう書いてあった。
「本能や感覚や感情や理性の生活を、断然しちゃならないと言ってんじゃないんだよ。
これしなきゃ生きていかれないもん、そうだろ。
また、しちゃならないと言ったって、せずにはいられやしない、
生きてるのに。
ただ、それに執着しちゃいけない。」

「それに執着しちゃいけない・・・」
ぼんやりとその言葉を味わいながら、Twitterのお気に入りのハートをタップする。

そして、まもなく上記の状態に私はなった。
かつてのある意味整理をつけてきた(またはそう思っていた)、激しい怒りや絶望感が、弱まるどころかむしろ強くなったように感じるほど、私の中で現れてきた状態。

そうして私はこう考えた。
「時のチカラ」というものは、感情は解消しないのだと。
感情そのものは解消されることなく残っており、「時のチカラ」がしてくれていたことは、その感情を受け止められる私を形成するのにチカラを貸してくれていたということ。
そう思いついた時に、私は納得いったのだ。 というか勘違いしてた!と思った。

また、それは病気や怪我の経過と似ていると。
病気や怪我は「経過するもの」ということは今でも変わらない。
しかし、感覚躰の見地からいうと、病気した怪我をした感覚躰というものは消えない。(このことは実は重要なところで、もしかするとこのブログで始めて書くかも・・・) ずっと残っている。
では「経過」というものが何であるかというと、感覚躰が増えるということ。
例えるとアニメのセル画である。
一コマ一コマを少しずつずらして描き、それを重ねて連続して投影することによって動きが生まれる。
その一コマの部分が感覚躰である。
故に、「経過」の過程をアニメ化した際に、元の病気をした怪我をした感覚躰(セル画)は消えないが、何コマものセル画が重なり一番上に来ているセル画は、便宜的に「治る」という言葉を使うと、治った状態のセル画があるわけだ。

・・・説明が上手くない、ということでこの「経過」のはなしは今回書きたいことの派生的なことなので、またの機会に・・・


もっとシンプルに言おう。
「時のチカラ」というものは、その人自身の人間としてのキャパシティーを増やしてくれるだけ。
だから、私はかつての激しい怒りや絶望の感情に対し、驚いたってことは、とても客観的になれているわけだ。
ちゃんと私自身の感情を私が受け止めて、その感情を眺められる人間のキャパがついたと・・・

そんな風に自分を感じた。

以前の私は、中村天風さんの言葉を借りるなら、そのかつて抱いた激しい怒りや絶望に「執着していた」ということ。
または、受け止め切れなくて、自分が飲まれていたということ。

そして今回、あの感情を受け止められるようになったのだなと思う。 まだ抱えきれないこともあると予感しながら・・・

成長したなと自分で思う。

でも、それは全て「時のチカラ」ではない。 
私の意志のチカラがまずあって、時ははじめてチカラを貸してくれる。

「意志の時代」

これが大前提だ。
そして、その意志でもって身体と共に人生を歩んでいく・・・ということだ。
それにはもちろん努力ということが必要になる。
ベストなのは「努力」を「努力」として感じてない状態がいいが。(それは私にはまだ難しい話なのだが、徐々には進歩していると思う)
そうすれば、必ず「時のチカラ」は手助けしてくれる。




そう、最近の自分の変化として、以前よりも心より愉しめることが増えてきたと感じている。

その過程を考えてみた。
私の人間としてのキャパが広がる
かつての怒りも絶望感も受け止められるようになる
どうやら、まだキャパに余裕がある
そこに愉しみ、喜びが入り込んでくる





私は
笑っている
うれし泣きをしている
愉しんでいる



かつてであり今である激しい怒り、絶望感と肩を組みながら
酒を酌み交わし

わらっている








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No title

難しい事はわからないが、小指を骨折してから、あと少しで2ヶ月になる。まだ完治してないので不便なのだが、骨折した事実は残っているけど、それに対する困ったとか、何でいつまでも、とかの感情は無いのだ。
しいていえば、そのうち治るだろう。小指の骨折がどうした?っという感覚かなあ。人はいろんな出来事に遭う。
自分が試されているとおもえば、こんなもんどうってことないぞ、っと思う。そう、時は力を貸してくれてるね。
プロフィール

Yasuchika Konno

Author:Yasuchika Konno
金野泰史
舞踊家/俳優/生躰研究家


1999年俳優を始め、2003年から舞踊(舞踏)・俳優・パフォーマンスアーティストとして活動を開始。音楽家、美術家、写真家など他ジャンルのアーティストとのコレボレーションも多々行う。
底辺から頂点に自身が日々稽古して探求する中で捉えた身体観、身体感覚を通しての表現を追求している。
2009年パフォーマンスグループ【KIUNJI】(キウンジ)を立ち上げる。現在は芸術企画【KIUNJI】としている。
また生躰研究家として「身体との付き合い方WS」も定期的に開催している。

このサイトでは、金野泰史、【KIUNJI】企画の公演情報や自身のステイトメント、また生躰研究家としての身体観や考え方をブログ形式でお知らせします。


公式サイトはこちら



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