人は寿命で亡くなる



この言葉も何度かこのブログにアップしているかもしれませんが、改めて・・・

人は寿命で亡くなる

これをまた別の方向から似たような言葉で言うと「死は生因の消滅」ということでもある。


本日夜中に私の親戚の方が亡くなられたと昼前に母親から連絡が入る。
死因は、癌とのことだ。

そして今訳あって、癌について勉強している。
自分が学んできたことと、今アプローチしている癌の勉強の参考資料、文献の中で、とても共感、理解出来ることが多々有り、それはまたおいおいこのブログにて情報を提示していきたいと思っているので、癌についての詳細はまた別の機会にしようと思っているが、ひとつだけこのブログにおける、共通言語として、「癌」というものをこれからは「ポン」と明記するので、よろしくお願いします。
(また別の記事においてそのことは言及したいと思ってます)


それで、生命に立脚する者として、「死は生因の消滅」ないし「人は寿命で死ぬ(亡くなる)」ということは、今後私が死ぬまで、多分一生変わらない捉え方、視線となるでしょう。

とにもかくにも、生因というのはまだまだ人類にとって未知なるものです。
そして死因とよばれるものでさえもまだまだ分かっていないことは山ほどある。
実際、ポンで亡くなられた方というのはどれほどいるのだろうか?と疑問に思ってしまうことも多々ある。
それは現代医療の領域においてもそう思う次第なのです。
その訳は今勉強中のポンの本にも書いてあるのですが、ポン治療による合併症やら、副作用による死因の方が多いのではと、(そう端的に著者がおっしゃっていたりもする)おもうのです。

・・・とポンの話になっていってしまうので、ここまでにして


「人は寿命で死ぬ」ということの解釈というか、私の考えを述べておきます。

これは私が考えた言葉ではなくて、教えていただいた言葉であるため、まだその真意には到底達していないかもしれないのですが、現在の私の解釈ですので、ご注意願います。

まず寿命とは何ぞやということですが寿命=生因と私は解釈してます。

故に「生因の消滅」=「死」ということです。 

これを受け入れるのはなかなか難しいことであると思います。
例えば生まれたばかりの子供、まだ何年も生きていない子供が亡くなってしまった親であると想像すると、はたして私がその立場の際に、この言葉を受け入れることが出来るのかと問われますと、実際に体験してみないことには何とも言えないのですが、多分私はある意味この言葉で自分を慰めることは想像に難しくありませんが、受け入れられるかどうかは分かりかねます。 
しかし、生命に立脚した立場から言えば、私は断言し続けているだろうと思うのです。
(スピリチュアルな解釈を持ち込めば、また様々な考えがあるかと思いますが、それは省かせていただきます。)
そして、この言葉を考えている時に、もちろん世界中の子供たちのことも考えました。
こうして私が家でヌクヌクとブログを書いている最中にも、毎時毎分世界のどこかで幼い子供たちが亡くなっている。 その環境、状況は様々です。 紛争や飢餓や災害や病気・疫病や犯罪などなど様々な理由があるでしょう。
しかしこの言葉はその全てを例外なく当てはめられると考えています。
それだけ重みのあることでであることは重々承知の上で、尚私は「人は寿命で死ぬ」と言いたいのです。

「人は寿命で死ぬ」というは、自然ということです。
それが、どんな状況であろうと、人為的なことであろうと、マクロの視点で見ると私にはそう思われるのです。
その時点で、私の自然観というのが、社会通念的な自然とは相反している部分があるのがお分かりいただけるとかとは思います。
私の自然観というのは、この流れで行くならば、ある意味「運命」と似ているでしょう。

では「運命」とは? という話になってくるので、また大きな話になってしまうのですが、ここでまた私の運命観として基軸としている言葉を紹介させていただきます。
これも以前このブログで紹介したのですが、甲野善紀さんがおっしゃっていた言葉なのですが(因みにこの言葉は私の好きなバガボンドという漫画の中でも使われているのですが)、
人間の運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由なのだ」(バガボンドの言い回しは少し違ったかな?自分の整理では「運命は完全に決まっていて、完全に自由だ」が生理が合う感じですね。)
この言葉は、私の運命観の基軸でもあるしまた自然観とも通じるものです。

ここで「自由」という言葉が出てきます。 
そこがまた一つのキーポイントであるのですが、私がこのような訴えをしている理由は、その自由においてです。
はたして、この私のブログでどれだけの人が何か息が通るような感想を覚えるかはわかりかねますが、少しでもそのような人がいるのなら発信しようと思う次第ではあります。 基本は私自身の備忘録でしかないというスタンスで書いてはいるのですが。

それで、自由においてというところ。 
先ほど、マクロの視点で言えば・・・ということを述べましたが、ミクロというか、私の手の触れられる範囲の世界、目の届く範囲の世界においては、この自由を存分に生かしたいと思うのです。
「・・・同時に完璧に自由だ」という「自由」を奪わせたくない、搾取されないようにしたいと思うのです。

で、ブルーハーツというバンドの歌があるのですが、
俺は俺の死を死にたいという曲なんですが、とにかく「自分の死を死んでほしい」、「自分の死を死にたい」と私は思っているのです。
それは、寿命で死んでほしいと言うことと同じ意味で、また生因を全うして欲しいという願いにもなります。 
そのためには自由ということがとても重要なことになってきます。

で、ここからは社会通念的な「自由」ということになるのですが、とても「自由」を奪われていると感じているのです。
それは、政治にしろ、社会にしろ、医学にしろ、自由を搾取するシステム、通念、観念が横行しているこの世の中で、少しでも自由を取り戻して欲しい、自分の死を死ねる社会になって欲しい、世界になって欲しい、言い変えるならば、それは「自分の生を生きて欲しい」と言っていることと同じなのです。 

その想いは私の生命に立脚した動機でもありますし、基本的死生観であるわけです。

だから、「・・・同時に完璧に自由」ならば、「・・・完璧に決まっていて・・・」と言われようが、人は変われるという経験をしているからこそ、変わってもらえるキッカケを提示出来るだけしていきたいと思っています。


と何だがダラダラと書いていて、よく分からなくなってきてしまった残念な自分を感じたので、締りが悪いですが、締めさせていただきたいと思います。(読み返したくないな苦笑)


「人は寿命で死ぬ」 「死は生因の消滅」

ということだけ、もしこれを読んで頂いた方は頭の隅に、もしくは身体の隅にとどめておいて頂き、この言葉がご自身の中で生きた言葉として育まれればこれ幸いと思います。 







「ポン」についてですが、あまりにも社会通念とは違う、ポンというものとの付き合い方がありますので、機会を設けて発信はしたいと思います。

本当にポンの現代医療の対応によって寿命が奪われ、生因が奪われている現状があることを知っていただきたいし、それを提唱している医師がいらっしゃることを知っていただきたいと思います。 

もしかしたら、残念な私なので本をご紹介するのみにとどまるかもしれませんが、よろしくお願い致します。








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プロフィール

Yasuchika Konno

Author:Yasuchika Konno
金野泰史
舞踊家/俳優/生躰研究家


1999年俳優を始め、2003年から舞踊(舞踏)・俳優・パフォーマンスアーティストとして活動を開始。音楽家、美術家、写真家など他ジャンルのアーティストとのコレボレーションも多々行う。
底辺から頂点に自身が日々稽古して探求する中で捉えた身体観、身体感覚を通しての表現を追求している。
2009年パフォーマンスグループ【KIUNJI】(キウンジ)を立ち上げる。現在は芸術企画【KIUNJI】としている。
また生躰研究家として「身体との付き合い方WS」も定期的に開催している。

このサイトでは、金野泰史、【KIUNJI】企画の公演情報や自身のステイトメント、また生躰研究家としての身体観や考え方をブログ形式でお知らせします。


公式サイトはこちら



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