まんなか



「中道」って何だろうってふと思う。

Wikiで調べると、基本は下記。
仏教用語で、相互に対立し矛盾する2つの極端な概念に偏らない実践(仏道修行)や認識のあり方をいう。
苦・楽のふたつをニ受(にじゅ)といい、「有る」とか「無い」という見解を二辺(にへん)というが、そのどちらにも囚われない、偏らない立場を中道という。

中道政治ってのもあって、Wikiると下記
中道政治(ちゅうどうせいじ)は、右派や左派あるいは保守や革新のどちらにも偏らずに中正の政策を行う政治。このような政治勢力は一般的に中道派と呼ばれ、その考えを中道主義ともいう。


どちらも「偏らない」という表現がなされている。

中道政治の概念としてはもちろんおっしゃる通りなのだが、
釈迦さんがどういう意味合いで言っていたかは分からねど、僕なりの本来の意味を考えてみると、「偏る」という表現がすでに本来の中道の意味からズレているんじゃないかって思うわけだ。

偏るということは、二極があってその真ん中というイメージだ。
天秤の支点、やじろべえの支点・・・ 
どちらも空間的な中心点ということなわけで、時間が抜けている。
時間と空間を切り離して考えることは、実際的に出来ない。
むしろ切り離して成り立っている理論は既にバーチャルなものだと思う。
(だから、時間が先か?空間が先か?という設問自体はナンセンスであると僕は思う)

で、空間的というと数値で還元できる。距離や重さ速度とか
故に、中道ということが所謂中心点ということになってしまうが、それは二極の存在がないと立ち現れてこないもので、中道ということがその二極に依存した相対的な存在でしかなくなるが、仏教的な中道の説明の中で「そのどちらにも囚われない」ということを考えると、依存して存在している限り、矛盾してくるわけだ。

そこで、前もこのブログに書いたような気もするけど、僕の思う「中心」というのは、空間的な中心点という観念に対して便宜的に説明するなら、もっと時間的なものだと思う。 
(時空を切り離すことが出来ないということを念頭においた上で)

その時間的な中心点というのが、感覚的な中心感に近いのだ。

感覚的な中心感というのは、ある一点からある一点へ線を引いたその二等分の一点ということではなくて、その空間上で表すなら、むしろどちらかに偏っていたとしても、真ん中なのである。

そういう感覚的な中心感がむしろ「そのどちらにも囚われない」ということを成し得ていると思うのだ。

二受・二辺という相対的な世界から逸脱している中道・・・対立して成り立つパラレルなワールドに属さない、別のパラレル。いやむしろパラレルを平行として捉えるなら、垂直の世界かもしれない。


中道というのは、本来そういう別世界のものではないかと思うのです。








そういう中道という世界観の上で、政治の中道主義も実践しなければならない時代に入っていると切に感じる。
全く違うレイヤーでしかも垂直に交わらせる。

そのヒントを提出するのはある種芸術の役割ではないかと思ったりもしている。

その為にも、表現の根本における身体というものを見直す必要があると強く感じる。




 


またこの「まんなか」という感覚は、舞台表でも美術表現でもはたまた武道のせかいでもかなり重要な感覚の一つだろう。 

「まんなか」を捉えることが出来れば、皆が生き生きとしてくる。 
そんな空想をいま思い描くのです。




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プロフィール

Yasuchika Konno

Author:Yasuchika Konno
金野泰史
舞踊家/俳優/生躰研究家


1999年俳優を始め、2003年から舞踊(舞踏)・俳優・パフォーマンスアーティストとして活動を開始。音楽家、美術家、写真家など他ジャンルのアーティストとのコレボレーションも多々行う。
底辺から頂点に自身が日々稽古して探求する中で捉えた身体観、身体感覚を通しての表現を追求している。
2009年パフォーマンスグループ【KIUNJI】(キウンジ)を立ち上げる。現在は芸術企画【KIUNJI】としている。
また生躰研究家として「身体との付き合い方WS」も定期的に開催している。

このサイトでは、金野泰史、【KIUNJI】企画の公演情報や自身のステイトメント、また生躰研究家としての身体観や考え方をブログ形式でお知らせします。


公式サイトはこちら



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