総じて値段がつくものは、すべて価値のないものである




「総じて値段がつくものは、すべて価値のないものである」


これはかの有名なニーチェの言葉だ。
何となくこの言葉が私の中でひっかかっていた。

世間の価値観とは真逆のことを言って、価値観の転倒を図るのが、ニューチェの手法というとかなり語弊があるとは思うのだが・・・(実際私はほとんどニーチェについて知らないし、手法でもなく、本当にそう思っていたのだろうし…じゃないと晩年に精神崩壊はしなかっただろう)
何となくこういうことではないかと云うのが、私の中でつながってきているので、ここに書き留めたいと思う。


プライスレスという言葉が世間では認識され使われているかと思うが、それは人々がプライスレスに価値を見出しているということであると思う。(CMの力が強いかもしれないが)

プライスレスはもちろんお金がかからないということだ。
そこに価値があるということは、それはお金では還元できない、価値判断出来ない、値段が付けられないものということだ。

いかんせん私たちは、お金が掛からざる負えない生活を送っている。(古からの生活様式を保っている人々を除いて)
それは、生命を維持するためにお金が必要なシステムの中で暮らしているから致し方ないことなのだが、
生命維持といっても、衣食住、それプラス医療やら何やら、また「遊び」「楽しみ」「喜び」を得るためにお金が必要なことがままあるわけだ。


それらは総じて値段が付いている。
その価値が正当か正当でないかはまた難しい話なので置いといて…

単純に何に値段が付いているかということに、焦点を当ててみたいと思うわけだ。

例えば、昔は考えられなかった水を買うという認識は、今やほぼ当たり前だ(都会では特に)。
因みに何年も前から水源争奪戦は始まっているし、近い将来水戦争が始まると言われていたりするわけだが、(さらにその先の空気の話も出ている)とりあえず昔の感覚に遡ってみると、水それ自体はプライスレスなものだったわけだ。(以前にも書いたかと思うのだが、経済的思考では自然物はタダという認識…根本的にそういう感覚、考え方がおかしな話だが。)
山、川の水は誰のものでもなく、みんなのもので、そこにお金は発生しないわけだ。

そう考えると、今の水に値段が付いている理由が見えてくる。

まずは、利権。
だが、それについては、基本的におかしな話なので、置いておいて(大体自然は元来人間だけのものでもない、命ある全てのものと共有するもの!土地もしかり…)、後は何かと言えば、そこに関わる人、その人達の手間隙、要は仕事が発生しているわけだから、それにお金が発生してくる。
で、仕事とは、その仕事をした人の生活を支えるものだと捉えてみることにする。
生活を支える為に必要なものを得るためのツールとしてのお金が値段というものに反映してくるわけだ。

マルクスのことはよく知らないが、労働力を金銭に還元するという考えでなく、労働者の生活を支えるために金銭が発生し、値段、価格が決まるという発想というのは、誰か提唱しているだろうか?
こういうのは共産主義または社会主義の類になるのだろうか?
勉強不足の私には分からないのだが・・・まあいいとして。

とにかく、水の値段はそれを商品にするために働いた人々の生活を支えるために必要な金額と考えると、私の中で生理がつくわけだ。

そして、ここで強引にニーチェに戻りたいのだが、「総じて値段がつくものは、すべて価値のないものである」という言葉にそくして私の生理がつく水の例で考えると、「水」というそのもの自体には値段が付いていないわけだから価値あるものとなる。
で、値段が何に付いたかといえば、労働に対してではなく、労働者の生活を支える為に必要なツールとしての金銭が値段の基であるからして、そのツールとしての金銭には価値なし!と言うことになるわけだ。

生活を支える交易が今は金銭というものに以外にないから、必要ではあるが、総じて価値はないと言うことだ。
そこで、「贈与」という関係を再度考察していきたいとは思うが、それはまたの機会にしたいと思う。

そしてプライスレスに戻るが、これも金銭では計れないから価値あるものとなる。


この考えの落ち度は至る所にあるだろうが、こんな風に考えてみるとニーチェの言った「総じて値段がつくものは、すべて価値のないものである」がまた別の見方として展開していくのではないだろうか…?
そう思う次第である。







この考えをちょいと舞台芸術に転換してみる。

私は今までどうも舞台を観るのにチケット代や料金がかかるのが腑に落ちないでいた。
それは、作り上げた舞台作品に値段を一律で設定していることにどうしても馴染めなかったからだ。
それは金額が一つの作品に対する価値判断の目安であると感じていたし、作品の価値は、お客さんに各々感じてもらい、お客さんに決定してもらいたいと思っていたし、それからお客さんによって金銭感覚は違うし、経済状況も様々だからだ。

そして舞台芸術の元は、お金を払って観るものではなかったからというのが私の根底にあるからだ。


しかし上記の考え方からいくと、大分違ってくる。
チケット代というのは、作品への対価ではなく、それを作り上げた芸術家の生活を支えるのに必要な金銭というツールを付与してもらうためというように考えると私の中で、生理がつくのだ。

私が稽古をするのは仕事であるし、何かのレッスンを受けるのも仕事であるし、身体の研究もまたしかり、舞台を創るための様々な研究もしかり、リハーサルもしかり、舞台は無論だ。

そして、しっかり仕事をすればするほど作品はちゃんとするわけだ。
故にちゃんとした作品はチケット代が高くて当たり前ということになる。

あえて「ちゃんとした」という表現にしたのは、ちゃんとしていることと、作品の良し悪しは別だからだ。
と言い出すとまた話が難しくなるので…


要はチケット代というのは、芸術家の仕事=芸術性の鍛練、洗練、LevelUpに対しての対価と言うことだ。

そして、作品それ自体は、プライスレスなのだ。




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プロフィール

Yasuchika

Author:Yasuchika
YASUCHIKA
舞踊家・俳優(+生躰研究家)


1999年より俳優を始め、2003年より踊り始め、2004年より、死んだら消える文化的かつ野性の身体観、生命観を学び始め、そのチカラを基とし、また蘇生させることを伴いつつ芸術表現へと転化させている。
2009年パフォーマンスグループKIUNJI(キウンジ)を立ち上げる。(2014 年より芸術企画として活動)
また2013 年より生躰研究家として「生きてるってどういうこと?」(=生因)や響命する身体を軸とし、身の持つ自然のチカラを活性させるワークショップや稽古会を行っている。
2017年9月舞踊家としての生前葬をソロ公演で行い、YASUCHIKAと改名し新たなスタートを切る。
また生躰研究家 金野泰史として「身体との付き合い方WS」も定期的に開催している。

このサイトでは、舞踊家・俳優 YASUCHIKA、【KIUNJI】企画の公演情報や自身のステイトメント、また生躰研究家としての身体観や考え方をブログ形式でお知らせします。


生躰研究家 金野泰史 稽古会 WorkShop(or lesson )案内はこちら


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