分解



分解の必要性。

(これは身体に限らず、全てに通じるものであるかと思う)


身体を扱う時に於いて、最終的な目的としたら、全身を使って動作を出来るようになれば、より楽々悠々と動いていけるわけなので、それが一つの目的である。

例えば指一本動かすだけでも、全身を使って動かせたほうがいい。
だがこの考えというのは、現代の効率的な観点から言えば、なんとも非効率的なイメージになるのだろう。
いちいち指一本動かすのに、全身を使っていたら、指一本だけを分断して動かすエネルギー消費量と、全身を使って動かすエネルギー消費量とでは、どう考えたってエコじゃないわけだ(笑)
でもですね、あえて効率的な思考の立場からでも、指一本で何を動かすかってことになるとちょいと話が違ってくる。 
例えば、指一本で動かせる最大級の重さを移動する運動をしなければならない時、指だけ分断して使っていれば、何度も出来ないわけだ。 しかしその時、その負荷を全身で分担して動かすことが出来れば、全身のエネルギーが尽きるまで出来るわけで、指一本よりも、効率は良くなるってことなのだが・・・説明が下手だな。ん〜。

何故説明が難しいかというと、そもそも上記のような状況というのは実際身体の中では起こらないわけで、指だけ分断して使うことなど出来ないからなんだが、(解剖学上でも無理)そういう機械論的身体を持っている方が大多数だと思われるので、例えばの話ということで。

逆に感覚的身体から言えば、指一本で動かすっていう見方はありだったりもするし・・・でもそれは、指一本が全身とつながっているから出来る事なんだけれども・・・


ということで、分解の必要性。


私のWSの中でも身体の部位を分解して使うことをやったりするわけだが、それは解剖学的にも感覚的にもなのだが、何故それが必要か? 


その説明のためには、よい身体というものの定義をここでしておく必要がある。 

私の考えるよい身体というのは、繋がっている身体だ。しかも通りがよくつながっている必要がある。

分かりやすく体それ自体で例えるならば、血流がよいって感じだろうか。 
淀みなく滞りなく血が流れているのは、みなさんもご存知だと思うが、いいイメージがあるかと思う。
血液サラサラ=いい。みたいな感じだ。 まあ実際そうだと私も思うし。
それで、血管というのは全身を廻っていますよね。 
繋がりっていうのは血管で、通りが良いのは血液サラサラということです。

あと、例えば家に例えてみましょうか。 
風通しのよい家って、いいイメージですよね。 
それとも似てます。 
空気が澱んでいたりすると、何だが変なものが溜まっていそうで、嫌な感じしますよね。 
そういう感覚ってとっても大事なんですけど。 何となくみなさんそういう感覚は分かるかと思うんです。

そんな感じで、通りがよく繋がっている身体って良いわけです。
風通しの良いからだ。

私の生の師匠曰く「交通整理の出来た身体」って言ってしまえば話は早いかもしれませんがね。
要は渋滞なく、スムーズに車が流れている身体がいいわけです。

交通には色々なジャンクションや交差点があるわけですね。そういうものが身体にもいっぱいあるわけで、そこが渋滞すると滞ってしまう。 

そこで滞らないためには、整理をする必要があるわけです。
交通整理。

交通整理をするためには、まずインフラを充実させないといけない。
それが分解が必要ってことにつながるわけです。

体で言えば、各関節はジャンクション、交差点になっている。
で、滞っている状態は、もう道もハッキリせず、こんがらがっている状態なわけです。 
まるで糸がこんがらがっているみたいに。 

だからその糸をほどいてあげる必要がある。 
その糸を解くことを、分解と呼んでいるわけですね。 

だから、分けて理解するってことではなく、こんがらがった糸を分別して解きほぐすってことで、分解なわけですな。 

だから機械みたいにバラバラにして、またくっつけたら上手くいくってことではない。
もともとスムーズに繋がっていた糸を蘇らせるって感じでいいかと思います。 だからバラバラにするってことではないってことですね。 
でも実際体を扱っていく上で、便宜上バラバラにするって言い方がぴったりくるので使いはするけど、機械的なバラバラが目的ではないってことです。 

因みにちょいと面白い感覚的アプローチを。 
どこか滞っていて、足が痛いとか、腕が痛いとか、肩が痛いとか・・・そういう人に、紐を渡して、こんがらがしてもらう、それを見舞いする側が、その人の見ている前でこんがらがした紐を解いて行ってあげる。 
すると、その痛い側の人が少しスっとする。 
そんな機会があったらやってみるといいと思います。 

 
しかし、とにもかくにも赤ちゃんは全く滞りがないわけです。 
糸もこんがらがることなく、全身で動いている。 
なんで大人になると糸がこんがらがりはじめるのでしょうか? 
意図的になってくるからでしょうか?
成長とはこんがらがることでしょうか? 
人間とは「考える葦である」なんて言った人がいますが、
考えることを覚えて、人間らしくなっていくことが、こんがらがるにつながっていく・・・
まったく面白いものですね。 






現代医療批判を少し・・・

大学病院なんか行くと、何科何科っていっぱいありますよね。 
それでたらい回しにされる患者さんがいるって話はよくある話です。

体を色々なジャンル分けをして、別々の専門家が専門の部位しか研究していかない。 そしてその中でもまた細分化されていく体。 
そうして色々な病気を見つけて、名づけて、病気を作り上げている。

キリがなさそうです。
でもそれが悪いってことではないです。 それはそれで病気という状態から抜け出した人は沢山いるのでしょうから。
それはそれでそういう身体観が出来てきたから、対応していくしかない。 
いいもわるいもないわけなんですが。

でもですね。 身体っていうのは元来繋がっているものなのです。 
繋がって通りが良ければ問題ない。 
だから、本当は大学病院自体が大きな体であると理解して、各分野を統合して一つの施術者を作り上げるのが、理想であるかと思うのです。 
そうしないと治療なんて出来ない。 生きている身体を理解することなんて出来ない。 生きているから、呼吸し心臓が動いているんです。 呼吸しているから、心臓が動いているから生きているわけじゃない。 
「分かる」為に分けていたのに、分けただけで終わってしまったら「分かる」ことからどんどん遠くなるだけなんです。
分けては繋げ、分けては繋げていかないことには、命は分からない。 
分けるために分けるのではなく、繋がるために分ける。 

って感じで矛盾している感じですが、理解するってことは本来そう言う事なんだと思うわけです。






あなたとわたし、そう分けることで、むしろより分からなくなる。 


故にわたしは孤独である

しかし身体は命は、繋がっている 

わたしと身体を分けない

そうすれば、あなたとわたしは少しずつ繋がっていく

もともと「一」なのですから 

もともと「ひとり」なのですから

もともと「全員」なのですから






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プロフィール

Yasuchika Konno

Author:Yasuchika Konno
金野泰史
舞踊家/俳優/生躰研究家


1999年俳優を始め、2003年から舞踊(舞踏)・俳優・パフォーマンスアーティストとして活動を開始。音楽家、美術家、写真家など他ジャンルのアーティストとのコレボレーションも多々行う。
底辺から頂点に自身が日々稽古して探求する中で捉えた身体観、身体感覚を通しての表現を追求している。
2009年パフォーマンスグループ【KIUNJI】(キウンジ)を立ち上げる。現在は芸術企画【KIUNJI】としている。
また生躰研究家として「身体との付き合い方WS」も定期的に開催している。

このサイトでは、金野泰史、【KIUNJI】企画の公演情報や自身のステイトメント、また生躰研究家としての身体観や考え方をブログ形式でお知らせします。


公式サイトはこちら



金野泰史 稽古会 WorkShop(or lesson )案内はこちら


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