極私的客観性について


客観性と言うと、他者ないし外部の判断ということになる。

でも、私は私だけしか全てのことを判断、認識できないはずなのに、その客観性というものをみな信仰しているのではないだろうか?

そして私はそう簡単に私の中に収まりつかない。 

腹は減るし、眠たくもなる。屁もこく(これはコントロール出来る人はいるかもしれないが、こきたい衝動は収められない)

それは外界との関わりもしかり、様々な要因、関係性で私は成り立っているからだ。

でも私は私でしかない。

矛盾しているようで矛盾してないということに気付いてしまえば話は早いのだが。

どうも客観性という観念がそれを邪魔しているのではないだろうか? 

そりゃあ客観性で分かってくることもあるけど、でも分かり得るのは私でしかないのだけれど。

つまりは客観性も所詮「私」という個人からは離れられないものなんだな。

だから何だか分からない「私」を客観することしか、客観性というのはないものであって、私という個人があやふやである限り、客観性もあやふやなものでしかないということ。

とはいっても絶対性などない、「全ては相対的なもの」としてしまうのはこれまたちょいと違ってくるわけだ。

分別、分類、整理、分解、理解・・・なんでも分けることが、クレバーだという風潮だけど、むしろ分けることが、本来の統合へ向かう道のりだったりしているわけで、実際分けてしまったら、そこにあるものは無くなってしまうっていうことを前提に置かないとダメだと思うんだね。 

でも統合ってことを、計量的発想と一緒にしてはいかんのですね。

これも何でも分けて考え、統合という前提を忘れてしまったが故の、現代人の生命に対しての不遜なんだね。

それは無論、規制、制限された統合性とも大きくかけ離れている。




石原吉郎 『望郷と海』より

「ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、おれは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。」


死または生の数量化、計量的発想に対しての抵抗。

「自立」・・・こいつに立ち返る。

「自立」とは? 今思うところは、「個性」とよばれるものが重要だとアジられているものとは、確実に違うということだ。









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プロフィール

Yasuchika Konno

Author:Yasuchika Konno
金野泰史
舞踊家/俳優/生躰研究家


1999年俳優を始め、2003年から舞踊(舞踏)・俳優・パフォーマンスアーティストとして活動を開始。音楽家、美術家、写真家など他ジャンルのアーティストとのコレボレーションも多々行う。
底辺から頂点に自身が日々稽古して探求する中で捉えた身体観、身体感覚を通しての表現を追求している。
2009年パフォーマンスグループ【KIUNJI】(キウンジ)を立ち上げる。現在は芸術企画【KIUNJI】としている。
また生躰研究家として「身体との付き合い方WS」も定期的に開催している。

このサイトでは、金野泰史、【KIUNJI】企画の公演情報や自身のステイトメント、また生躰研究家としての身体観や考え方をブログ形式でお知らせします。


公式サイトはこちら



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