極私的客観性




ふにゃりと実景がおぼろげな中で、世界のシュミラークル(模造現実)は突如として現れた超現実によってパッと剥ぎ取られてしまった。

剥ぎ取られた姿は、当事者たり得ない隔たりに立つ私には未だに実景を帯びることなく、内的な焦燥感も輪郭を帯びさせることに取り組まぬまま、空虚感と無力感は足元にぽっかりと転げ落ちており、今やそれさえも何かに回収させようとしていることに、表現者としての危惧を感じているのである。

自主的戒厳令下の中で、何が破壊され、何を失い、または何を失っていないのか? その「答え」もしくは「問い」をマスメディアが垂れ流す情報への懐疑と批判によって慰めつつ、協調主義的全体主義化による個は全体へ、私は我々へ統合されていくことに気づかぬまま、個の埋没された「全体」「我々」という拠り所でしかない立ち位置から向き合い、その行為において安心しようとしうるなかで、設問したところで結局のところ、私が表現者として存在することに責務を担うとするならば、それらは見せかけの自己欺瞞でしか成り得なく、本来として立ちうるためには、たとえ適わぬとしても、せめて個としての自分の立ち位置より、「答え」を探し続け「問い」を投げかけ続け、それを表現することを試みる必要があったのだと思っているのだ。

優秀ではない一介の表現者には甚だ高く深い選択肢ではあるが、対峙する必要性を感じているこの感覚は重要なのは確かであるのだ。

そんな中、特に文壇、詩壇における優秀な先人たちの東京大空襲や関東大震災、広島長崎の表現に触れると、畏れおののきながら、目の前にありながらも遥か彼方に指標として立ち上っているように感じる言葉があるのだ。
その時私は自分が表現者であることも忘れ、ただ立つこともままならないのが正直なところではあるのだが、よろめいた足が踏ん張る時、私の薄れかけた個人の影を少しだけ色濃く確認させてもらえたのである。

追えるか?

それも自由か…(笑)

極私的客観性の外観部分で、鼻で笑う私がいる。

そいつも悪くない…深き客観性を持ち得ていればの話だが。







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プロフィール

Yasuchika Konno

Author:Yasuchika Konno
金野泰史
舞踊家/俳優/生躰研究家


1999年俳優を始め、2003年から舞踊(舞踏)・俳優・パフォーマンスアーティストとして活動を開始。音楽家、美術家、写真家など他ジャンルのアーティストとのコレボレーションも多々行う。
底辺から頂点に自身が日々稽古して探求する中で捉えた身体観、身体感覚を通しての表現を追求している。
2009年パフォーマンスグループ【KIUNJI】(キウンジ)を立ち上げる。現在は芸術企画【KIUNJI】としている。
また生躰研究家として「身体との付き合い方WS」も定期的に開催している。

このサイトでは、金野泰史、【KIUNJI】企画の公演情報や自身のステイトメント、また生躰研究家としての身体観や考え方をブログ形式でお知らせします。


公式サイトはこちら



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