踊りが私る。 






私の敬愛する詩人が言った。 

「言葉は私のものではないから、自由に使ってもらって構わないです」

昔先輩から聞いた。トム・ウェイツの話。

「彼は自分の作品を無名に帰したいと。 作者の分からない童謡のように」 

その点、「梁塵秘抄」はもともとそういう歌か・・・(全然詳しく知らないが)




私が舞台表現、または特に「舞踊」に於いて、心がけていることのひとつに「身体を手放す」というのがある。

それは、私が身体を所有しないということだ。
 

私の師匠は言う「何十年か人間やっているだけの個人なんて大したことないのよ」と。 



私は身体を手放す。 

すると無名の身体が動き出す。


私はその動きを傍らで観ているだけだ。


その動きは、もちろん私のものではない。 そして、それはまた動きを観ているお客さんのものでもない。 


それは言うなれば、その場に立ち現れた、「自然」だ。   


山は誰のものでもない、川は誰のものでもない、海は誰のものでもない、雲は誰のものでもない、空は誰のものでもない、太陽は誰のものでもない・・・

 
私たちの生命は無名にその根をもつ


故に無名に帰したとき、生命の動きは現れ、自然となる。 



その時初めて、「感応」の扉が開かれる。















昨日のパフォーマンスで、いつもより「身体を手放す」ことが出来たよ。


やった後で、あんまり実感なかったしね。 「実感」を良しとしない俺にとっちゃ、良かったと判断していいのだろう。


ルソーの「自然に帰れ」は、ある意味、俺の言う「身体を手放す」こととリンクしてくるのかもね。 まあルソーさんにそのへんは聞いてみないことには分からないけど(笑) 


でも、自己顕示欲があるから、完全に無名に帰するとなると、何だか寂しい気もしないでもないよね(笑) やっぱり俺がやったんだみたいな実感は欲しいと思ってしまうけど、やっぱそうじゃないんだよね。 

ひとつ思ったのは、そこがプロとアマの違いかもね。 アマチュアはたっぷり実感していいんだよ。 やった感がないと面白くないだろうしね。 
でも、プロはそうじゃいけないと思うかな。 だからと言ってここで言っているように、お客さんのためってことでもないんだよ。 

「誰がために百花咲く」 (俺の座右の名ね) 

花は誰の為に咲くわけではなく、その生命のあるがままに動いているだけ・・・それを見た人が勝手に美しいと思うだけ。

芸術はサービス業じゃないからね。 エンターテイメントはそれでいいけどさ。 

芸術は無名に帰す! それが一つの指針としていいかもしれない。 



無名といっても、人の世界にいる限り、名前は付けられる。 
自然も人によって色々呼ばれているからね。 
なんとか草、とかなんとか山とか、なんとか湖とか、なんとかの木とか・・・でも自然は自然。

それで、一つとして同じのってないよね、たとえ同じ花でもさ。

個性ってそこじゃないかな。 否応なくあるもん。 
だから個性を大切にする人は、むしろ個性から逃亡したほうが、より個性が浮き彫りになってくるかもね。 



「実感なき世界」ってのもひとつの自分の大切にしていることなんだけど、それと「身体を手放す」ことが、リンクしてきた、昨日のパフォーマンスだったな。 










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プロフィール

Yasuchika Konno

Author:Yasuchika Konno
金野泰史
舞踊家/俳優/生躰研究家


1999年俳優を始め、2003年から舞踊(舞踏)・俳優・パフォーマンスアーティストとして活動を開始。音楽家、美術家、写真家など他ジャンルのアーティストとのコレボレーションも多々行う。
底辺から頂点に自身が日々稽古して探求する中で捉えた身体観、身体感覚を通しての表現を追求している。
2009年パフォーマンスグループ【KIUNJI】(キウンジ)を立ち上げる。現在は芸術企画【KIUNJI】としている。
また生躰研究家として「身体との付き合い方WS」も定期的に開催している。

このサイトでは、金野泰史、【KIUNJI】企画の公演情報や自身のステイトメント、また生躰研究家としての身体観や考え方をブログ形式でお知らせします。


公式サイトはこちら



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