あたりまえで失われるものたちへの賛歌




人間には「慣れ」というものがある。 

この「慣れ」は順応とも言い換えられ、その順応能力は人間を成長、成熟へと導いてくれる生きていく上で欠かせないものでもあるだろう。

だが「慣れ」による危険というものもある。 危険なことも慣れてしまうとその危険を感じられなくなり、危険の罠に陥ることもよくある話だ。

順応することは重要だが、それは感覚を麻痺させることではない・・・ 

なかなか人間は難しいものである。 だから面白いのだが… 


「あたりまえ」・・・これも慣れや順応に似ていて、共有できる感覚でもあるが、個人的なものでもある。 そしてこれにも大きな落とし穴はつきものだ。


しかし日本語は面白い。 似たような意味合いのことでも、そのニュアンスによって違う言葉が存在している。 
そこを思うと、本当に日本は豊かな文化を背景に持っていると痛感する。



「あたりまえ」
 
この言葉はどちらかというと、悪い方向の言葉のように思うのは私だけだろうか? 

あなたにとって「あたりまえ」と自明している事柄はどれほどあるだろう?

そしてそれは本当に「あたりまえ」なのだろうか? 







随分と寒くなってきた。 

昨夜などは、その寒さに冬を感じ冬を思いだし、寒さの記憶と現在の感覚をすり合わせてみたりしながら、寒さを堪能しすぎて嫌になったほどだった(笑)



狭いキッチンで洗い物をしていた。
私はあたりまえのようにお湯を出して、食器を洗っていた。

その時ふと、思い出した。
あれは何時頃だったのだろう? 
まだ私が小学生の低学年の頃ではないだろうかと思う。
我が家に初めてのガス湯沸かし器が来た時のこと。

ガスの元栓を捻り、大きなボタンを押していると、カチカチカチと音がして、ガスの青い火が狭い横長の小窓から見える。ボタンを離し、しばらく冷たい水に手を出していると徐々に水が暖かいお湯に変化していった。


とんでもなく、素晴らしい機械だ!と感動していたような気がする。 
その「便利」さにありがたさを感じながら。


それまで、間違いなく私の母は、冬でも冷たい水に手を赤らめて、家事をしていたのだろう。 
しかしガス湯沸かし器が着いた後も、もったいないと言って、ゴム手袋なんかして冷たい水を使っていたような記憶もある。
また手にはあかぎれなんかが出来てしまっていたような気もする。(パートのせいかもしれないが) 

そんなことを思い出しながら、私は食器洗いを終えた。
 

そして、なんとも湯沸かし器がありがたく思えたのだ。






最近は米も無洗米なんか使って、冷たい水で米を研ぐこともしていなかったが、最近有難いことに、お米を頂いたので、それを冷たい水でとぎ、炊いた。 

それがなんだか美味かった。 
もちろんお米自体の質ももちろんいいんだけどね。














「あたりまえ」のことなどこの世にない。


どこにでも転がっている言葉だ。 
でもそれを本当に感じられるようになるのはなかなか難しいものだ。

これから更にちょっとした隙に、「あたりまえ」と思ってしまっていることに対して目を向ける時間を作って感謝の念を抱くように、より一層心がけたいと思う次第である。



 




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プロフィール

Yasuchika Konno

Author:Yasuchika Konno
金野泰史
舞踊家/俳優/生躰研究家


1999年俳優を始め、2003年から舞踊(舞踏)・俳優・パフォーマンスアーティストとして活動を開始。音楽家、美術家、写真家など他ジャンルのアーティストとのコレボレーションも多々行う。
底辺から頂点に自身が日々稽古して探求する中で捉えた身体観、身体感覚を通しての表現を追求している。
2009年パフォーマンスグループ【KIUNJI】(キウンジ)を立ち上げる。現在は芸術企画【KIUNJI】としている。
また生躰研究家として「身体との付き合い方WS」も定期的に開催している。

このサイトでは、金野泰史、【KIUNJI】企画の公演情報や自身のステイトメント、また生躰研究家としての身体観や考え方をブログ形式でお知らせします。


公式サイトはこちら



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