やっぱり…?




三次元の世界を人は認識出来ていると思われがちだが、実は二次元でしか世界を見てないのかもしれない…


例えば、絵画で考えて見る。
(写真でもいい)


世界を二次元に納めるもの。

むろん、表現としては、二次元に拘束されたからこそ、滲み出して来る、何かはあるのだが、それを表現出来る人はそうそういない。という話は置いといて…


要は、二次元に還元しても何ら違和感なく鑑賞出来ていると言うことは、(端的にテレビ、映画もだ)、二次元の世界観で生活していると言うことではないだろうか?

そう言ってもおかしくないと思ったわけである。

そこで絵画の例えに戻すが、抽象画っていう表現があるが、あれは三次元の世界を表現しているのではないかと思ったのである。
(純粋に可視世界を表現したら抽象画になっていたという場合の話)

物体、空間認識としての視覚を二次元とするなら、三次元には、感覚的視野がそれに加わる。

それは物体が光を反射し、それが網膜に映ると言うよりも、感じる視野だ。
むしろ視覚と言う五感の機能とは違う感覚のものだ。



そういう感覚を育てないことには、死を迎えるまで、二次元の世界しか観ることが出来なくなる。

それは嫌だな。

もったいない。




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No title

そうですね、、、。感覚的視野が加わらない限り人間はかなり平面的、表面的に現実世界を見て(網膜に映って)いるだけかもしれません。

今年も何回か桜を見に行ったのですが、はじめに、ぐるぐる歩いては立ち止まったりして見て回ります、で、そこからスケッチを描き始めていくとまず見ていなかったことに気付きます。
そこからもう一度見ていくのですが、それもまた意識しすぎると、たぶんその感覚的視野、視覚が逃げていくといいますか、うまくいかないのです。
そこで即興性?、瞬間的な速度で線をはしらせてゆくと少し生き生きしてきます。
しかし大概、何とも煮えきれない思いのまま帰路に着くのです、、、。

現に自分を自分で見れないように(これはなんとも絶望的あきらめです、、、)、不可視性や、世界の捉えどころの無さゆえに、人の表現衝動が生まれるのだろうと思います。

ほんとに、もったいないですよね、

見ることとそれを純粋に表現しようと格闘した作家、ジャコメティ。
矢内原伊作著の”ジャコメティとともに”はこころのバイブルです。

話はつきないです、、。

コメントありがとう。


これを思いついたのは、(まあ前からそうなんだけど) ふとスケッチのことを考えていてね。 
スケッチの上手い人は、二次元の紙の中に3Dを現出させることが出来る。 けどそれは本当の3Dなんだろうか?ってね。

こんな話を聞いたことがある。 これは4次元の世界観の話なんだけど、虫が見ている世界なんだけど、どうやら、俺達には止まっているもの、例えば木だね。桜の木でもいい。 それが、虫達には動いて見えるらしい。 ゴッホの絵のようにね。 

それはよく言われる、空間に時間が加わることで3次元といわれているけど、そういう視覚的に認識できない時間という要素を、感覚することで見えてくる世界といえるかもしれない。

論理的なことはどうでもいいとして、この動いて見える、現象はあながち幻想的な話ではない。 
実際、俺の師匠もゴッホの絵のような風景を体験しているし、俺自身もある集注感覚に入れたときに、はっきりではないが感覚することが出来る。リアルに動いているのは見たことないけどね。

それを見られるのは、やっぱり自然界のもので、生きているもの。 

だから、感覚的視野を目覚めさせるには、生きているということを捉える力が必要になってくると思う。

キーワードはやはり「生」だと思う。



俺らは特に視覚に頼りすぎる生活を送っているし、人工的なものに囲まれて生活しているから、感覚的視野の能力が落ちてしまうのは致し方ないが、その能力は持っているから、目覚めさせることは出来る。





それで、一つ。 

「見る」という行為は、能動的であるが、これを完全受動的に切り替えて、目をむしろ消していくようなアプローチをする。
そしてそれから、ある対象を見るとき、目で見るのではなく、その受動的に入ってくるものを受け入れた時、その対象を身体のどの辺りで観ているのか?感覚しているか?を身体に尋ね、その箇所からまるで観ているかのようにすると、その対象の観え方がすこぶる変わる。
これは直ぐ出来るし、実験してみて欲しい。 

迎え入れの作業。

そして、感覚的世界というのは、実感を伴えるものではない。 

俺たちの実感というのは刺激と反応の世界で認識した経験を実感と呼んでいるけど、感覚世界は曖昧模糊としているもの。 

だから、実感を求めないのも、感覚視野を目覚めさせる一つのアプローチ方法だと思う。


> そこで即興性?、瞬間的な速度で線をはしらせてゆくと少し生き生きしてきます。
> しかし大概、何とも煮えきれない思いのまま帰路に着くのです、、、

だから、煮え切らなくもいいのかもしれないね。 漠としているくらいの方がいい。



ジャコメティ。  矢内原伊作著の”ジャコメティとともに”

拝見させ頂きます。

ありがとう。


プロフィール

Yasuchika

Author:Yasuchika
YASUCHIKA
舞踊家・俳優(+生躰研究家)


1999年より俳優を始め、2003年より踊り始め、2004年より、死んだら消える文化的かつ野性の身体観、生命観を学び始め、そのチカラを基とし、また蘇生させることを伴いつつ芸術表現へと転化させている。
2009年パフォーマンスグループKIUNJI(キウンジ)を立ち上げる。(2014 年より芸術企画として活動)
また2013 年より生躰研究家として「生きてるってどういうこと?」(=生因)や響命する身体を軸とし、身の持つ自然のチカラを活性させるワークショップや稽古会を行っている。
2017年9月舞踊家としての生前葬をソロ公演で行い、YASUCHIKAと改名し新たなスタートを切る。
また生躰研究家 金野泰史として「身体との付き合い方WS」も定期的に開催している。

このサイトでは、舞踊家・俳優 YASUCHIKA、【KIUNJI】企画の公演情報や自身のステイトメント、また生躰研究家としての身体観や考え方をブログ形式でお知らせします。


生躰研究家 金野泰史 稽古会 WorkShop(or lesson )案内はこちら


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