「茶会記PLAY-ACT vol.5」 後記


一週間が経つ

四谷茶会記PLAY-ACT vol.5 を終えて

書き残しておきたいことがあったのだが、なかなか書かないでいた。

最近はなかなかこのパソコンに向かって、書くということが出来ないでいる、またはしないでいる。
何だろうか?言語化することの作業が今の私にとって億劫であることもあるし、その億劫の訳は、ここに記す意味があるのだろうか?ってこともあるのだが、ただただ備忘録として書いておこう、また残しておきたいと思った次第だ。

このようなパブリックなツールにおいて書き残しておくということに対する責任。 その責任を取るということが、どうも馴染まなくなり、疑問を持ち、悶々としている節もある。 だが、今回の書き残しておきたいことに関しては、舞台芸術家として、公に伝えておきたいこととしての欲求が自分の中にあるので、ここに記す。

(この前置きがどうでもいいような気がしてきてしまうのだがwwwまあ、これも記録として)


この度の舞台で、何人かの人に言われたのが、「舞踊」「身体表現」の強さというか、優位性というか、そのような「舞踊」「身体表現」という表現の媒体についての想いを聞かせてもらった。
まあ、ざっくり言うと、「舞踊」「身体表現」というのは、「凄い」とか「いいね」とかいうような感じだ。

因みに私にとっての表現媒体としての憧れは「音楽」である。
いつも「音楽」のように「身体表現」をしたいとか思っていたりするのだが、
「音楽」の表現としての在り方に対してそもそも嫉妬するというか、羨ましいというか、
元来私が芸術に関心を持ち始め、そして大きな影響を受けているのが音楽ということも大きいのだが、
とにもかくにも、未だに「音楽」には憧れている次第。

で、「身体表現」「舞踊」なのだが、その表現媒体としての話の中で一つのワードとして「リアル」ということが浮上してきた。
その「リアル」または「リアリティー」に関しての私の舞台というものの捉え方を書き残しておきたい。

よく私は舞台は「虚構」の世界だと言ってきたと思う。
それは「芝居」という表現媒体を考えた時、そのような表現をするのだが、それはそれで確かに「虚構」であることは間違いない。
「芝居」には本があって、物語が書かれており、それは虚構の世界の地図のようなものだ。
それを立体にしていき命を吹き込んでいくのが、舞台人の仕事となるのだが、
「舞踊」「身体表現」という媒体を考えると、それはまた私の中でまた変わってくる。
で、今回のリアルというキーワードにおいて、気付いたというか、言語化された考えがある。

私に於いての「舞踊」「身体表現」というのは「リアル、リアリティーの凝縮」だということ。

それを特に今回の茶会記PLAY-ACT vol.5の「DANCE ON PLAY-ACT」で感じさせてもらった。
私の現在迄の舞台の作り方は、即興が基本となっている。
即興と言っても完全に即興ではなくて、決まりごとのフラッグを立てたり、方向性を持たせたり、テーマを持たせたりと、色々な枠作り、骨組み作りはするのだが、それはポイントだけ記されている地図のようなもので、そこに至る道は書いてないし、まだそのポイントがどのようなポイントとしての景色を見せてくれるかは、分からないままやるわけだ。
なので、大枠でいうなら本当即興的なものとして立ち現れてくる舞台になる。
それはまた違う言い方をするならば、かなり安定性にかけた舞台だ。
それは商業的な舞台とは随分とかけ離れたものの作り方で、
その日、その時の出演者のコンディションに大きく左右される。
そのコンディションっていうのが、本当に時間帯や天候や気分や感覚、つまりは外的な要素もしかり内的な要素もしかりで、大きく影響されてきて、ごく日常の生活を営んでいる人間と同じなわけだ。
その影響が多分に出るように、私は即興というものを使っているのだなと感じている。
そして舞台中は特にその外的要因がお客さんという強力なエネルギーによって左右されるわけだ。

そなんこんなで、私の舞台はより日常な状態の中で、非日常な行為を行っているという舞台となる。
そして、その非日常を作り出す為の集注力によって日常、リアルが凝縮されるわけだ。
そう、舞台の集注とは日常のリアルの凝縮を行っている作業なのだと思ったのだ。
ただ虚構の世界を構築するということではなく、虚構の世界を構築するシステムにのっとって、日常を凝縮する作業であるということだと。

濃厚な日常という感覚は誰しも一度や二度は体験していると思う。
その時というのは、言い方を変えると、濃密に生きている感覚と同じではないだろうか?
また濃密に生きているときというのは、全てが必然だと感じるのではないだろうか?
それこそまるで、一つの映画の中に入り込んだような、舞台に紛れ込んだような感覚ではないだろうか?

私が濃密な日常を過ごしたときというのは、非日常な感覚になるし、まあ大体の状況に置いて、ルーティン的な日常から脱している時、たとえば旅の時なんかに発生しやすいのだが、それは濃密で必然の連続で、または奇跡の連続でといった感じになるし、また時間の流れ方も違ってくる。
そんな濃密な日常を、人工的というか意図的にというか意識的にセッティングしたのが、私の「舞踊」「身体表現」に置ける舞台だなと思った次第である。

と言語化してみると、「なんや、あたりまえちゃう?」って感じになってしまうが、私の中ではそれを如実に感じさせられた舞台だったので、ここに残しておきたくなったわけだ。

この度の舞台が、それを強く感じさせられるものになった理由は、共演者がいたということ。
もちろん、今までにも多くの共演者がいる状態はあったのだが、
とにもかくにも、今回はバイヴレーションがあったというか、なんというか、全ては必然であり、私はそうあるように決まっていたかのように動いていたし、今という時に、過去も未来も本当に集結し圧縮されていたと感じたわけだ。

この感覚というのは、長年舞台をやってきてはいるが、そうそう感じられるものではないと思う。
(まあ、この感覚を回りの舞台仲間や関係者に聞いていないので、分からないけど)

ということで、誰も言ってくれないので、私が言うしかないのだが、今回の初日の「DANCE ON PLAY-ACT」は観た方がよかったと思う。
あれは、なかなか観ることが出来ない種類のものになっていたと思う。
そう思うのは、私自身がその舞台に立ちながら、必然に体が導かれながら、客観的に感じていたから。

と長々と凝縮されることも無く書いてみたが、要は今回の舞台は自分でも驚くような素晴らしい舞台であって、
そこから感じたのは、私の舞台というのは「リアルの凝縮」だということ。
それは、編集されたドキュメンタリー映画でもなく、タイムリーに居合わすことが出来るリアリティーの凝縮の場ということ。

ということで、これからもその様な舞台を私はやりたいと思う次第である。


プロフィール

Yasuchika

Author:Yasuchika
YASUCHIKA
舞踊家・俳優(+生躰研究家)


1999年より俳優を始め、2003年より踊り始め、2004年より、死んだら消える文化的かつ野性の身体観、生命観を学び始め、そのチカラを基とし、また蘇生させることを伴いつつ芸術表現へと転化させている。
2009年パフォーマンスグループKIUNJI(キウンジ)を立ち上げる。(2014 年より芸術企画として活動)
また2013 年より生躰研究家として「生きてるってどういうこと?」(=生因)や響命する身体を軸とし、身の持つ自然のチカラを活性させるワークショップや稽古会を行っている。
2017年9月舞踊家としての生前葬をソロ公演で行い、YASUCHIKAと改名し新たなスタートを切る。
また生躰研究家 金野泰史として「身体との付き合い方WS」も定期的に開催している。

このサイトでは、舞踊家・俳優 YASUCHIKA、【KIUNJI】企画の公演情報や自身のステイトメント、また生躰研究家としての身体観や考え方をブログ形式でお知らせします。


生躰研究家 金野泰史 稽古会 WorkShop(or lesson )案内はこちら


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