傍らの死



母の飼っていた猫のモモが、1月3日の13時頃、母の住まう家に滞在している家族が全員揃った中で亡くなった。
二年足らずの生涯だったと思う。

死因は獣医曰く、モモが殆どの猫がもっているはずの免疫(あるウィルスに対する抗体)を持っていなかったようで、肺に水が溜まるような症状で、手のほどこしようがないとのことだった。

2日に母の家に着き、モモがもう死にそうだと聞き、もう一週間程前から何も飲まず食わずで、自分で排泄にも行くのもしんどくなっているとのことで、押入れにうずくまっているモモの様子を見に行った。
すでに苦しそうで、落ち着かない様子だったが、まだ元気を取り戻せるのではないかと一縷の望みを抱きたいとは思ったが、母から聞いた様子と、モモの状態をみるに、もうモモは死に向けて準備をしているかのように見えた。

そして次の日の3日、私が母の家に戻ると、モモの様態が著しく悪くなっており、呼吸は昨日にくらべかなり苦しそうで、その苦しさに耐えられないかのように、かすれかすれに鳴き声も漏らしていた。
そしてそれから数十分も経たずに、モモの様態は進行し、びゅうびゅうとした呼吸音と漏れるような鳴き声をあげながら、一週間も飲まず喰わずの身体で、全然動けなかったのにも関わらず、亡くなる前に自分の死に場所を探すかのように、ヨロヨロの足腰で倒れ込んだりしながらも歩き回り、ちょうど長女夫婦が甥と共に帰宅した時、何かに誘われるようにリビングに歩み出て、より痛々しくなる呼吸音と鳴き声も途絶え途絶えの中、歩いては座り込み歩いては座り込み、最後はモモが愛用した小さな電気毛布の上に倒れ込み、息を引き取る瞬前は、どこにそんな力が残っているかと思うほど、身体を緊張させ、最後には大きく反り返り(その時に魂は抜けたと思う…)、間の空いた、短い緊張を三回程繰り返し、モモは息を引き取った。









動物は、本能で自分の死を感じ取ると、死に場所をもとめて、どこかにいなくなる。


私の経験上、野良猫は皆そうだし、象もまた共通の死に場所があると聞く。

モモが亡くなる一週間前から飲食を断っていたのも、自らの死を感知していたのだろうと思う。
生命が産まれて、この世に出てくるのに過程があるように、死にも過程はある。

生命バランスの調べのエロスとタナトスが、タナトスの方向性に鳴り響きはじめたとき、本能で生くるものは、自らの死を覚り、その過程を踏んでいく。飲食を断つのも、その過程の一つなのだ。

野性の勘、感性を失うことなく生きるもののみ、自然の死を迎えられる。



私はこう思っている。
「生の尊厳」があると同様に「死の尊厳」があると。


都市化され、現代医療に洗脳され管理され、情報化されていく現代人の生に「死の尊厳」は埋没してゆく。

それは同時に「生の尊厳」も失われていくことを意味している。



「何故人を殺してはいけないのか?」
「何故むやみやたらに殺生をしてはいけないのか?」
そんなあまりにもおかしな質問が出てしまうような世の中に、どれほど危機感を抱く人がいるのだろうか?








「俺は俺のあるがままを死にたい」
「俺は俺のあるがままを生きたい」





切実な問題だと、私は感じているのです。






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プロフィール

Yasuchika

Author:Yasuchika
YASUCHIKA
舞踊家・俳優(+生躰研究家)


1999年より俳優を始め、2003年より踊り始め、2004年より、死んだら消える文化的かつ野性の身体観、生命観を学び始め、そのチカラを基とし、また蘇生させることを伴いつつ芸術表現へと転化させている。
2009年パフォーマンスグループKIUNJI(キウンジ)を立ち上げる。(2014 年より芸術企画として活動)
また2013 年より生躰研究家として「生きてるってどういうこと?」(=生因)や響命する身体を軸とし、身の持つ自然のチカラを活性させるワークショップや稽古会を行っている。
2017年9月舞踊家としての生前葬をソロ公演で行い、YASUCHIKAと改名し新たなスタートを切る。
また生躰研究家 金野泰史として「身体との付き合い方WS」も定期的に開催している。

このサイトでは、舞踊家・俳優 YASUCHIKA、【KIUNJI】企画の公演情報や自身のステイトメント、また生躰研究家としての身体観や考え方をブログ形式でお知らせします。


生躰研究家 金野泰史 稽古会 WorkShop(or lesson )案内はこちら


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