舞踊家・俳優という肩書きを傍らに置いといて、生躰研究家としてのプレゼンをさせて頂きます!

ということで、イベント告知。 本日です!
(予定では昨日この記事を書き上げるはずだったのですがwww)

DEVIATE.COの主催する

異業種交流会 円環 vol.8 に出ます。

詳細
6/22(日)スピーカーでのプレゼンテーションと交流会
開場13時 スタート13時半  17時まで
参加費:¥2500/1D  通し券:¥4000/2D(事前予約のみ)
@四谷三丁目 喫茶茶会記
(〒160-0015 新宿区大京町2-4 1F お電話 03-3351-7904)

円環FacebookEventPage

ということで、もし私の生態研究家って何?ということが聞きたい方がおりましたら、私めまで、連絡いただければ、幸いです。




ということで、改めて「生態研究家」について考えておる次第であります。

最近は、初めての方を対象にWSをやらせていただく機会もありまして、あらかた概要はさくっと説明させていただいたりしておるのですが、ちょいとそのあたりをもう一度客観的なところで捉えて、アウトプット出来るようにしていく努力も必要なんだろうな~と考えております。

最近も内内に「ちょいと生態研究家について喋ってみてよ」なんて振りがありましてね。
その際、なかなか突っ込みどころが満載だったりすることに気付かされまして、ちょいと考えてみっかって思ったわけなんです。

と言いながら、朝がやってきたようですwww 一度あの世へ行っていたようでwww

はい!イベント当日です。本日は雨!


ということで、何につけても生躰研究家は一番の重要度を「生きているということ」「生」「生命」においているわけで、「『生』に立脚して世界と関わる」みたいな言い方も出来るのですが、そうなると自ずと「死」というものの重要度も同様になるわけなんです。 

ここで、「何で?」っていうことを説明するのがどうやら重要らしいです。 
単純に、「生と死は表裏一体だから」と言って、私の思うところとを理解してもらえればいいとは思うのですが、そうはいかない。
そう書いていて、私自身もそう思う。 そんな都合のいい話があるわけないしwww
 
例えば「生と死が表裏一体」ならば、「『死』に立脚して世界と関わる」という言い方も出来るのですが、それは構造的に成立しているのですが、イメージや気分や感覚的には具合がよくない・・・

そう、感覚的にそれは具合がよくない。

なぜかって言えば、その「死」というものへの人間が持つイメージ、印象、マインド、観念等々が問題でして、それらが身体に影響を与えるわけなんですね。
その既成概念が無くなれば、「生」も「死」もフラットに捉えられ、問題なくなるのですが、それはまた、単純にプラスイメージかマイナスイメージかってことが消滅すれば問題ないってことなんですが・・・
と、またプラスとマイナスっていう観念が出てきましたが、これも生と死と似たような構造の二元論的なものへ繋がっていく。
で、二元論を出してしまうと、これまたややこしいくは無いのですが、ややこしいイメージがついてくるので、今は取り扱わないです。

で、ここで再三だした言葉として、イメージがあるんですが、このイメージっていうのが、実はとても人間を人間らしくしている重要なファクターだと今改めて書きながら気付きました。 
まあ、似たようなことはこのブログでも書いているのですが・・・・そうなるとイメージって何?ってことになってくるのですが・・・それも置いておきましょうwww

ということで、とりあえず「既成概念が無くなれば、「生」も「死」もフラットに捉えられ、問題なくなる」ということが、実際には「生」と「死」においては成立しないってことを言いたかったのが、違うほうへ行ってしまったので、戻ります。

既成概念が無くなれば、イメージ的に「生」も「死」も言葉の彩としてあるだけで、人間が在る状態になんら影響を与えないわけなんですが、はてさてそれもどうなのかな~?っていう言葉のチカラ(言霊)の問題も出てくるのですが、そいつは置いておいて、影響が無いとします。 
しかしながら、生物の世界として、これは絶対的事実だと私は定義しているのですが、
「生きとし生けるものすべては死ぬ」わけなんです。 (事実って何ぞや?って話にもなりますがwww)
人間さんに限ってとりあえず言えば、今まで死んでない人はおらんわけですね。
それはどんな宗教においてもそうですよね? 
キリストさんもブッタさんもしっかりと死んでおられます。 
その絶対的な死という状態っていうライン引きも人それぞれあるわけなんですが、ここでは単純に人が生きてる、死んだっていう子供のころから遊びの中でも取り入れられてきた感じの、動いていたものが動かなくなるっていう状態を死としましょう。
生態研究家としては、「『生』とは動いているもの」と定義するわけんですが、実際これを今ここで持ち出すと、またまた訳分からなくなるので、スルーします!www

その動かなくなった状態。 単純に死後硬直なんていうのは、みなさんもテレビで知っているでしょうし、映像とかでも見たことあるだろうし、実際にそのような現場に居合わせた人もいるでしょうから分かると思うんですけど、(それもぶっ飛んで、分からないっていう状態になっている死を受け入れられない人や動物もおりますが・・・)

で、長々と書いてきましたが、そのような動かなくなった状態の「死」というものは、「悲しい」ってことを言いたかったんです。
その「悲しみ」は、「既成概念が無くなれば、イメージ的に「生」も「死」も言葉の彩としてあるだけで、人間が在る状態になんら影響を与えない」ってことを、簡単にひっくり返す。

おいおいここまで書いてきて、感情論?って思われるかも知れませんが、生躰研究家として感情っていうものは、その感情が起こる素があるわけでして、その素が感覚なんです。
その感覚が、表面化する現象として感情というものを捉えているのですが、故にここで今あげた感情論というのは、生態研究家としては感覚による客観的現象という感覚論になってきて、その感覚が「生」を紐解くためのもっとも重要な軸であって、私がよく言う「シンタイ」、「カラダ」というのは、客観的な物体としてのフィジカルな身体ではなく、感覚的な身体でして、それを感覚体と呼んでいるのですが、その感覚体の動き次第で、感情というものが表面化するというわけです。 

そして、感覚体は常に動いている。 どれだけフィジカルな身体が静止してようとも、常に動いているのが感覚体。 
(まあ、一般的に生きている状態の人間は、心臓とか不随筋系とか神経系とか細胞とか細菌とかなんやらかんやらは常に動いているから、止まれないんですけどね~)

で、ここで一つ「生きている」という状態っていうのは、生躰研究家としてはどういうことかって言うと、
客観的事象の体と感覚的身体(感覚体)がみまごうことなく一体、一如な状態ということなんです。
(「みなごう」ー「みまかる」-身罷る・・・からだがあの世にまかり去る=死)

「死んだら消える身体」という表現を感覚体に対してするのですが、この上記の定義でこの「死んだら消える身体」=「感覚体」の意味が分かってくるかと思うのですが、要は客観的事象の体というのは、単純に生きていた状態と死んだ直後の状態とで、何ら変化は見受けられないわけです。 そりゃあもちろん心臓は止まりますがね。 
でも、何かが去ってしまっている。 それはとても感覚的なものであるのですが、明らかであり、その明らかさを受け入れるか入れないかは、感受性次第であり、またその人のイメージの世界の話であるのですが・・・


といった感じで、「生と死が表裏一体?」ってどういうこと? ってことだけでも説明し始めると大変なわけでして、文字に起こすとこれまた大変な作業なわけで、それをまとめて簡潔に言うとなると、かなり洗練させていかないといかんな~と思うわけなんですが、一番最初の話に戻りまして、

「『何で?』っていうことを説明するのがどうやら重要らしいです。」
ということを私は怠っていたと感じさせられる次第なんですね。 
仲間内では、共通言語がバンバン成立していて、このような話をするにも、ある一言が、例えば上記のような情報量を既にもっており、それを使ってさらに次の話へ展開していくのですが、その共通言語を持たない人たちとコミットしていく時に、その共通言語を再度分析して説明していかなくてはならないわけで、その作業をするためにもブログを書いているっていうこともあるんですけど、そう思っている私でも、特に生躰研究家の立場ではない時には特に共通言語のオンパレードを、意識出来ていないくらい、使っているようです。 

いやはや、まいりましたねwww
私の言う身体と、世間の体との違いはもちろん認識しておりますが、そこが焦点ではない話の場合は、大変でありますwww

しかし、その作業がとても自分がよりよく、自分の言っていることを理解できる作業になっていると思います。
これから、全国つつうらうら講演会をやっていかなくてはならないので(笑、お呼ばれしてます、時代にwww)、どんどん鍛えていかないといかんな~とおもいつつ、今日のプレゼンもその訓練として、張り切ってまいりましょう!


って、もうあと幾ばくも時間がない(笑)









台所で鍋にこびりついた汚れをこすりながら思い感じたことについて





先ほど鍋にこびりついた汚れを、アクリルたわしでこすっていた。

台所といっても狭い部屋に申し訳程度についている、マンスリーマンションのようなキッチンなのだが・・・

鍋についた汚れはなかなかのこびりつき具合で、力任せにやるとなかなかの重労働だ。
集注の仕方次第では途中で面倒くさくなって投げ出したなるアレだ。

そこで、バカみたいに力任せにやって、なかなかとれない汚れに対してイライラしても仕方がないので、生躰研究家としての感覚世界でのアプローチに切り替えたわけだ(笑)

誰でも経験があるかと思うのだが、水周りの掃除とかを始めると、時々ある種の集注世界に入って、時間も我も忘れて水垢をこすり続けていた・・・みたいな経験ってありますよね? 

そういう集注感ってとっても感覚的な身体が主導権を握っていたりするのですが、それってもっと突き詰めると瞑想状態と言っても過言ではない状態なんですね。

じゃあ瞑想って何?って話になるのですが、これは様々な見解、経験、認知があると思うんですが、私の見解では、感覚的な身体(感覚躰)が客観的な世界を凌駕している状態とでも言っておきましょう。
って何じゃそりゃって感じですが、もっと端的に言うならば、見えない、または観測、計測出来ないチカラまたは動きに乗っかっている状態。
ってこれも上手いこと言えてないな・・・もっと感想的に言うなら、「何だか分からないけど気持ちよかった」ってことでいいんですけどね。
まあ、そういう状態って気持ちいもんなんです。 気持ちいと言っても、刺激と反射による「気持ち~!」って感じじゃなくて、もっと漠然とした「快」「心地よさ」で、「ああ~気持ち~な~」(ある種の穏やかな状態)っていうその場では言葉にならない感じですな。 

私は俳優修行時代に(今も修行中ですがw)太極拳を教わったのですが、太極拳って「動く瞑想」って言われていたりするんです。
瞑想って「禅」が日本ではポピュラーだと思うんですが(今はヨガが人気かな)、客観的には禅って座っているだけでしょ? 動きませんよね。 そのイメージが強いから、瞑想って言うと「じっと座って動かないもの」って認識している人が多いと思うんですが、私から言わせると、動いていても全然瞑想状態になれるわけなんです。
(正確に言えば、座禅も客観物の身体は止めてますが、感覚躰は動いている)

とまあそんな感じで、鍋の汚れ落としに戻りましょう。

以前にもこのブログで書いたことあるかと思うのですが、家事っていうのはとっても優れていて、何が優れているかって言うと、身体の滞りを解消するのに、家事の動作って凄くいいわけなんです。

代表は掃除ですかね。
掃除に関しては、舞台のテーマでも取り上げたことがあるくらい、とても人間にとっていい行為なんです。
神官さんもお坊さんも職人の修行も掃除っていう過程はほぼあるとおもうんですが、その掃除を通してある種の動く瞑想状態を経験しなさいよ~ってことだと思うんです。 

で、家事に戻りましょう。
台所仕事。 いろいろな動作があると思うんですが、その台所仕事の動詞の種類を挙げたらいっぱいあるな~と思いつつ、それだけ動詞があるってことは、やっぱり日本文化が築いた台所の文化って凄いな~と感じ入っているわけなんですが、今回は鍋の汚れ落としってことで、私は「はがす」という動詞、動きの世界で、対応してみたのですが、まあいい集注感に入りまして(または乗りまして)、「快」を得たわけなんです。

なんで「はがす」っていう動き、感覚の世界にフューチャーしたかってことは、WSに来てもらえればお教えしますwww

ということで、いろいろあるのですが「はがす」ってところにチャンネルを合わせて、その感覚世界で、汚れ落としの動作をしておりますと、重労働感はないわけなんです。 それでもって、終わった後に、「快」がある。 
「快」をもう少し具体的にいうと、身体の風通しが良くなる、呼吸が入ってくる、滞っていたものが、流れていく、通りがよくなるって感じなんです。

家事って本当に良いものですね~!(水野晴郎風に)

とは言っても私はあまり好かんですが(笑)


そう、それで思うことがありまして。
現代って、便利の名の下に、家事の行為を奪われているな~と思いましてね。
そりゃあ、主婦の人に言わせれば、「あんたやってみなさいよ」って言われるのは目に見えるのですが、(苦笑)
そこの観点ではなく、上記の観点からいうと、ある意味、身体を整える機会の日常動作を奪われているんだよな~と思うわけなんです。

単純に言えばストレス解消法でもあるわけなんですよね、家事って。 
今の子等はあまり知らないかもしれませんが、怒っている奥さんが、台所で何かを刻む音が怖いっていう日常の風景や映画とかドラマのシーンとかよくあったと思うんですが、あれって完全にストレス解消を「切る」行為でやっているわけなんです。 そういう行為が日常から消えていけば行くほど、ストレス解消法を新たに作るか、溜めるしかないわけで、溜めてしまった場合の一つの文脈を大雑把に言えば、その溜まったストレスが病気を生み、病気が病院をはびこらせ、製薬会社が私服を肥やし・・・といった現代社会のバビロンシステムの悪循環が生まれるわけです。


とまあそんな感じで、こんな長く書くつもりはなかったのですが、身体のためにも家事はお勧めです! 

 
って全然まとまっておりませんがwww





現代の毒 ~未来の生のために~



現代にはびこる毒にかんして、一人の人間として、また生躰研究家としても声を大にしていいたいところなのだが、正直私の生躰研究家としての観点からしたら、人間が作り出した毒というものも、この世に現れているということに関して言えば、それも必然であって、人類の総体の意識が求めていることだとするならば、それは致し方ないことであって、それぞれの人生ということにおいて、知ろうが知ろまいが、どちらでもいいのかもしれない。それよりも生躰研究家としては、「生きている」ということそのものが一番重要度が高いのだから・・・ということも頭をかすめるわけだ。
知る必要があることならば、自ずと知る機会は訪れるだろうし、その機会を生かすも殺すも、その人の選択でしかない。




だが、やはり現代にはびこる毒のあまりにもの酷さに、人間としての憤りを感ぜずにはおれないし、なによりも子供らの命、また全ての生きとし生けるものたちの命を搾取し奪い殺戮していくようなことは止めたいと切に感じるのである。


生は何事においても犠牲にされてはならない。

生の本質は生かされることのみにあるのだから。



死は生の対立概念として認識されているが、それも違う。
死は生の変容の一形態でしかなく、死もなお生かされることなのだと私は考えます。   

   







と、まあ前置きが長くなってしまったが、現代のはびこる毒についていろいろ調べている最中ではあるのだが、知れば知るほどに、本当に毒まみれの世の中であることが分かってくる。

その毒で、多くの命が壊され、殺されている現状があり、その毒はむろん人間が作り出したもので、大概の理由は命を食いものにして金または権力を得ているということだ。

とにもかくにも、よくもここまで毒まみれにできたものだと感心してしまう。 それも人間の欲望のなせる業だ。


この前、ぱっと思いつきで、「欲求は満ちるが、欲望は満ちない」とつぶやいたのだが、これはまた後日その違いについては書くかもしれない。

ということで、この毒まみれの現代の事実の概要を知れる本を紹介します。

最低限度、この現代を人間の欲望に殺されること無く生きたいのなら、参考書として読んで頂きたい。

四コマ漫画付で読みやすいので、入門書としても(まったく毒に関して無知な人には、いきなり感はあるかもしれないが)いいと思う。


医者とおかんの「社会毒」研究医者とおかんの「社会毒」研究
(2013/10/23)
内海聡

商品詳細を見る



あらゆる毒についての詳細は、他にも多くの本が出ているし、調べようと思えばいくらでも出てくるので、あとは自主性にお任せするとして、上記の本くらいの情報は持ち合わせていて欲しいと切に願う次第である。

それで、この本の最後のほうに、あらゆる毒(社会毒)の避け方として、これだけは実践したいというのが載っているので、引用させてもらう。
(というかこのブログを見た方は是非この本を読んで、背景が分かった上で実践していって欲しいのだが・・・)


 ・買うときに食品添加物をできるだけ避けること
(ネットなどで質の良い健康ショップ、自然食品の店を探すこと)

 ・無農薬の野菜を探す努力をする
(日常的な食材なのでお金をかけすぎないこと、ケチること)

 ・肉は良い豚肉や良い鶏肉を主体で考える
(まず肉を少なめにすること、アメリカ牛やブラジル鳥など危険なものから排除)

 ・魚は産地と青魚を重視する
(野菜同様に質の良い魚屋を探すこと)

 ・全部を食べる(一物全採)ように意識する
(加工品を食べたり、おいしいものだけ、柔らかいものだけ食べない)

 ・甘いもの(砂糖、甘味料)は避ける
(これは徹底的に行う)

 ・塩、酢、コショウ、油、醤油、味噌など調味料を厳選する
(これも徹底的に行う。かかる費用もそれほどではない)

 ・水は良い製品を買うか、浄水器で濾過
(わざわざ高い浄水器を買わなくてもよい)

 ・シャワーにも浄水器をつける
(同様に高いものは必要ない)

 ・フッ化物やサッカリンなしの歯磨き粉を使う
(これも徹底的に行う)

 ・マクドナルドやロッテリアなどジャンクフードは食べない
(これも徹底的に行う)

 ・チェーン店で食事をしない
(同様に徹底的に行う)

 ・トクホ商品や甘味料や異性化糖入りのジュースは飲まない
(同様に徹底的に行う)

 ・コンビニの食品は食べない
(同様に徹底的医行う)

 ・電子レンジは温める最終手段であり、基本的に使わない
(基本は湯煎したり火で加熱しなおしたりオーブントースターなどをうまく活用)

 ・牛乳や乳製品を避ける
(乳製品が好きなら豆乳にする、発酵系の乳製品のみにするなど)

 ・トランス脂肪酸を常に避けるよう注意する
(油にはこだわる、バターなども)

赤ちゃんのための粉ミルクは母体が思わしくない時だけ
(粉ミルクの成分を必ず確認)

子供のための消毒薬やせっけんや洗剤などを必ず見直す
(これはほとんどお金がかからないでも実践できる)

子供に携帯電話は使わせない
(一番難しそうだが)

子供がゲームをしたがる場合は、殺人、殺戮的なゲームはさせない
(20年前、30年前と比べてもそのようなゲームが増えた)




ということなのだが、本当にこれが当たり前のように出来るようになったら、身体が変わると思うのです。(因みにそれに付随して、考え方も、社会も、環境も、風景も…地球も、宇宙も…)
といっても、私は何だかんだで、よく言って51点位ですかね(笑)!
糖抜きは大分やっておりますが、完璧ではないですし、たまに嫌々ながらもコンビニ食品をかうこともありますし、外食もチェーン店などで、いかにも悪そうな食い物も食ったりします。(覚悟の上ですが)

で、上記には載ってないことですが、私が出来ていることは、薬を飲んでないこと(10年以上は経ってますね)、あと歯医者以外は(詰め物取れて再び入れてもらうくらいだが)西洋医学の世話にはなっていないことですかね。(これも10年以上かもっと)
同じようにまったく薬・西洋医学に世話になってないやつと話すと、なんで医者に行く必要があるのか?薬を飲む必要があるのかが分からないし、薬や病院の事情を知っている今は、むしろ毒であり、病気にさせられるわけだから、行かない方がいいに決まっていると思う次第ですわ。

あと、取り組んでいるのは、洗剤系ですね。 今まだ勉強中なのですが、界面活性剤は駄目だってことは分かってきましたわ。合成界面活性剤は無論いかんですね。で、せっけん(石鹸)が地球にも身体にもやさしいようです。(アバウト過ぎか笑)
それから、まだ半年も経ってないですが、それなりのせっけんのみで、身体も頭も洗っております。 臭くなければ(笑)、シャワーのみですね。(元来、石鹸など使わなくてもいいんですけどね) それから、歯磨き粉もやめて、いい塩のみで磨いていたり。(砂糖を止めれば、歯を磨く必要もそんなないと思う)

とにかく、地球を出来るだけ汚染しないようにしたいなって、普通に思うだけで、随分手遅れなことも多々在りますが、気づいたならやらないとねってことでもあるし、私の考えでは、地球を汚すってことは、生命は循環しているわけだから、己が自身を汚していることでもあるし、なんにしても、人間もふくめ、生命に毒をふりまいとるわけなので、それはしたくないなと思うんですが、まあいくら気を使っていても、多少なりとも汚してしまうわけでして、そう考えると、本当人間ってって思ったりもするんですが、まあそこはみんなでやっていくしかないところなんで、やっていきましょう!ってことで・・・

で、これをするわけって言うのは、冒頭でもそのような意味合いのことは言っているかもしれませんが、私は人間の健康とかいう概念はどうでもよくて、この現代の地球で生活しているものとしての層において、ただ生命を尊び、汚さず、犯さずに、生をあるがままに全うさせたい、したいと思っているだけなんです。(大分傲慢な言い回しですが・・・)

あと、これは人間として言っておきたいのは、子供らを守りたいというのは強くあります。
選択の出来ない子供らを守るのは、親でしかないわけなので、親と親になろうと思っている人には、この毒(社会毒)のことは知っておいてもらいたいです。

特に女性は、子供を産むことも出来る人なので、しっかり毒を回避してほしいと思います。
女性の身体にたまった毒を、子供は凝縮して引き受けるのですから。




因みに男どもも、毒ばっかり食っとると、種無しになるで。

実際にY染色体の数は激減しとるらしいし。
その原因も、この社会毒、人間毒に由来することは一つの事実としてあるのだから。




人間が精製してきた毒が無くなり、上記のような気を使わずとも、生きていけるような社会にするためには、みんな一人一人の消費動向は、凄いチカラなんだから、そのチカラを使って欲しいと切に願っております!

少しずつでいいので、みんなでやれていけたらと。












寒いですな〜


最近は、ちょいちょいSNSやらで、思っていることや、いま注目していることを小出しにしているので、
なかなかブログまで到達する前に、次から次へと他の事を考えてしまって全くまとめられないのですが、
たまには更新しとかないとと思ってみたり・・・(笑)



で、寒いです。
夏が大好きな私にはこの寒さは迷惑(笑)なのですが、まあ致し方ないですね。


最近はあまり話題にされてないみたいですが、
小氷河期へ突入というような話があるわけなんですが、
太陽さんの活動が今までみたいに安定しなくなって、
2013年秋頃に太陽活動極大期と言われていたみたいなんですけど、
どうやらその予想が外れているのが現状で、寒いです。


で、私が思うに小氷河期にこれから徐々に移り変わると思っているので、
これから安定した四季というのは難しいかと思うのですが、
今年の夏は暑くなって欲しいと願いつつ、
熱くなったら存分に弾けてやろうかと思ってみたり(笑)。 


まあ、そういう地球、宇宙環境になってきて、
もう穏やかな時代は過ぎ去って、
変動の激しい時代に突入しているわけでして(たぶん徐々にだと思いますが)、
今も地震やら地殻変動やら彗星やら隕石やらといろいろなニュースが飛び交っとりますが、
そこで生躰研究家としては、
身体がどのようになっていくのかが興味あるところであります。 


身体は四季と共に移り変わるのですが、その四季が乱れるとなると、身体さんは忙しくなるだろうと思うわけです。
例えば今日も、昨日も(昨日は特にひどかった)寒いわけです。すると身体さんはもうそろそろ緩んできた身体が、温かな季節を迎えるためにまとまっていこうとする時期ではあるのですが、寒くなると「あれ?」っとなって、身体がまた初春のような状態へ動こうとするわけです。 


如何せんそんなに身体はころころ変われない訳で
(短いスパンではコロコロ変わるんですけど)、
外気に対応できない身体は、体調を崩したりしやすくなるわけですな。


で、「記憶や経験というものがDNAに蓄積される」というようなのをロシアの研究チームが研究しているらしいのですが、
(これもまとめたい重要な話なんですが、いずれその内)
DNAさんに過去の記憶、経験が蓄積されているとすると、
そのレベルでも季節感というものを身体さんはもっていて、
その記憶と現在の現象とのギャップもあったりして、
対応が遅れたりもするのかな〜とか思うわけです。

そう、季節と身体はリンクしていてということからなんですけど、

生躰研究家としてどのような身体に重点を置いて研究しているかというと、
「響命躰」という、
(造語ですけど、一応ググッてみたら完全ヒットはしなかったですね)
身体な訳ですわ。

命が響き合っている=身体、
ということなんですが、
私からすると別段スピリチュアルなことでもないし、
当たり前な感じであって、
科学的でもあると思っているのですが・・・何か?(笑)

で、季節と身体がリンクするっていうことは、
まあ響き合っているということで、
(強引かな?)
季節というのは太陽さんが大きく関わっているわけでして、
また気候というものに影響を与えていると研究されている宇宙線なんかもあるわけなんですけど、
要は宇宙全体と身体はリンクし響き合っていると言いたいわけなんです(笑)


これ、突拍子もない話では徐々になくなってきていて、実際に色々研究されております。


現代科学的に実証されないと
(実証って何?って感じですが)
なかなか世間では信ぴょう性に欠けると思われるので、
致し方ないのですが、
その辺は現代科学の研究家さんたちに大いに期待している次第であります。


特にロシアの研究期間には期待大です。
(私はよくロシア系の血が混じってる?とか言われるのですが、最近は光栄だな〜とか思ってます(笑))
本当、色々な研究をしているみたいで、例えば人間の感情と気候の変動とかね・・・


それで、大分私は感動を覚えたのですが、
1900年代の始め頃に活躍したロシアの科学者であるチジェフスキーという方が、


『地球上の生命現象が宇宙の物理的な現象とつながっている』


『ひとつひとつの生きた細胞は「宇宙の情報」に感応しており、「大宇宙」はこの情報を細胞のひとつひとつに浸透させている』


と言っているのですが、
上の「地球上の生命現象が宇宙の物理的な現象とつながっている」ということの証明となる研究結果の一つに
「太陽黒点活動と地球上での社会活動の間に明らかな関係性がある」
ことを発見したのがチジェフスキー博士なんです。 
これ、知ってる人には有名は話だと思うんですが。

私は別口でこの話を知っていたのですが、
それがチジェフスキー博士とは記憶しておらず、
その博士が「ひとつひとつの生きた細胞は「宇宙の情報」に感応しており、「大宇宙」はこの情報を細胞のひとつひとつに浸透させている」
と言っていることはとても感慨深く、海外の科学者に
居たんだ!(異端だ)こういう人と興奮しました。


で、私の仕事はそこからなんですね。


このような研究の末に出てきたことをどう感覚化するかってことで、
それは体験し、ある意味意識化することなんですが、
はははは、まださっぱりワカランですな。 


そもそも意識化した時点で、もう違うものになってしまいそうなんですけどね(笑) 

「認識はいつも一歩遅れる」

というわけで、難しいわけです。


Don't think,Feel! でございますな〜。




ポンを知るためのお薦め本。



え〜なかなかずぼらな私ですので、ポンについての情報を上げようかと思ってはいるのですが、なかなかすすまないので、とりあえずこれは読んでおこう! という本を紹介しておきます。


がん放置療法のすすめ―患者150人の証言 (文春新書)がん放置療法のすすめ―患者150人の証言 (文春新書)
(2012/04/19)
近藤 誠

商品詳細を見る



いきなり素人が読んでも難しい部分はありますが、大体内容は掴めるはずです。
今までポンについて曖昧であったり、知っているようで知らないポンのこと、ポンに対する現代医療のあり方がよくわかると思います。

知らないが故の幸福とかありますが、これは知らずにいたら不幸でしかないです。
あなたの身体はあなたでしか最終的には救えない。
「人生と身体を別々にするな」
病も無論あなたの人生。 
あなたの人生はあなた次第。 あなたの人生を別の誰かが代わって生きることはできない。
人生=身体 
自分の人生に責任を持ちたいなら、ポンに関して知っておいたほうがよいことが書かれてます。
(宣伝したところで私に全くお金が発生するわけではないんですけど笑)


近藤誠さんの著書は他にもございますが、私がまず手にとったものはこの本ですので、とりあえずということで。








プロフィール

Yasuchika

Author:Yasuchika
YASUCHIKA
舞踊家・俳優(+生躰研究家)


1999年より俳優を始め、2003年より踊り始め、2004年より、死んだら消える文化的かつ野性の身体観、生命観を学び始め、そのチカラを基とし、また蘇生させることを伴いつつ芸術表現へと転化させている。
2009年パフォーマンスグループKIUNJI(キウンジ)を立ち上げる。(2014 年より芸術企画として活動)
また2013 年より生躰研究家として「生きてるってどういうこと?」(=生因)や響命する身体を軸とし、身の持つ自然のチカラを活性させるワークショップや稽古会を行っている。
2017年9月舞踊家としての生前葬をソロ公演で行い、YASUCHIKAと改名し新たなスタートを切る。
また生躰研究家 金野泰史として「身体との付き合い方WS」も定期的に開催している。

このサイトでは、舞踊家・俳優 YASUCHIKA、【KIUNJI】企画の公演情報や自身のステイトメント、また生躰研究家としての身体観や考え方をブログ形式でお知らせします。


生躰研究家 金野泰史 稽古会 WorkShop(or lesson )案内はこちら


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