自分ごと


随分とブログを書いてなかった。

これはブログに残しておこうと思ったことが、忘れ去られていっている(笑

その中でサクッと思い出したものを書き残しておこう。





「自分ごと」

今年に入ってからだ。
そう「戦争と一人の女」の稽古に入っていた。
去年の4月からはじめた武術でよく言われていたことで、
「自分ごととしてやる」ということ

これ、字面だけでいったらなんとも当たり前のことなんだし、
私が身の基礎として培ってきた身体観の師匠からも、「最後は自分」「自分でやるのよ」「『ひとり』でやるのよ」・・・なんかマッチする言葉が思い出せないが、「自分ごととしてやる」と同じニュアンスのことは13.4年言われ続けてきたわけだ。

それで。 それがやっと「そういうことか!」って分かったわけですわ。

まあ、武術だと分かりやすいのですが、「自分ごと」の説明としての例え話、シチュエーション話で、
武術は戦うわけです。
そして、どんなに素晴らしい師匠に付いていようが、どんなに強い師匠に付いていようが、最後に戦うのはその人自身。
立ち会う場に師匠がいようが、直前まで師匠の指導やアドバイスを受けようが、最後に戦うのはその人自身。

これも、文として理解できることと思いますが、これとっても切実な話なんですわ。
武術で戦ういうたら、死ぬわけです。殺めるか殺められるかだけですわ。
これ以上切実なことないですわ。
ということで、稽古を「自分ごととしてやる」ということです。 
というか、自分ごととしてやれていないと何を知ってようが、どういう稽古をしようが、どういう何があろうが、いざという時に使えんわけです。 やってきたように見せかけてきたものが、何も使えない。
その使えなさを、戦うときに気付いても、まあ遅いわけですな。

そういうことなんです。 って言ってもコレぜんぜんピンとこないんだと思いますわww。 
私も10年以上かかって、そこそこ切実に真剣に本気で稽古してきた自負はありますが、そういう俺がやっと気付いたわけです。
(まあ、この気付きもまだ第一段階かもしれませんが)

で、ここからちょっと飛躍すると、この「自分ごととして取り扱えない」現象ってどっから来てるのかって思うとですね、
「人生と身体を別々にしている」って感覚なんです。
それをよくよく培ってくれているのが現代医療です。
いろんなマシーンがあって、高ければ高いほどそのマシーンが治してくれると誤認するわけです。

これは論理的に考えても、私のような身体観的に考えても、病を治すのは「最後は自分」なわけです。
これ真実です。いや現実です。
誰も、自分を治せません。 誰かによって、もちろん切欠は与えられます。環境も条件も与えられます。
でも「最後は自分」なんですわ。

ということです。

「自分ごととしてやる」

ちょっと追加して言うと、「人生と身体は切り離せない」※注)論から言うと、
身体を自分から切り離しているイコール人生と自分を切り離しているってことでもありますな。
この辺のことについて、最近取り組んでいるので、あ~だこ~だ言えませんが、そういうことです。






ということで。


※注:私はよくよく身体や身という言葉を使うが、これは生命、生と不可分なものであり、生と身体が重なっているから、生活が出来ており、現世に存在しておりということなので、相手にしているのは生と身体が重なっているものを、身体や身や躰やらと呼んでおりまして、生が抜けているものは死体と明記します。
体より躰やら身体やら身と書いているのは、「人の本」ってより「身の本」の方が何を取り扱おうとしているのかがニュアンスとして届くだろうし、「体」だと世間に流布されているイメージが自分の「躰」とはかけ離れているから差別化している次第です。

こんなところで。

舞台「戦争と一人の女」メモ②

 

3・11を舞台で迎えた。
3・11以降それは初めてのことだった。
3・11が起きた時は、舞踊での舞台の本番二日目の劇場に向かう前であった・・・

去年は「5years」というArtEventを3/12に自身で主催した。
私も無論のこと出演した。
その時、私がテキストというか、3・11に潜るための道案内として辺見庸さんの「瓦礫の仲から言葉を」を使わせてもらった。
辺見さんの詩「眼の海」も、舞台の中で朗読させてもらった。
その時のことにご興味ある方は、
こちらを(この記事の前後にも「5years」関連の記事はあります。これなど

そして今年の1月末に、辺見さんの「1★9★3★7」の文庫本発売記念?講演会に行くことが出来、辺見さんに直接「5years」で、辺見さんの「瓦礫・・・」のお陰で、自分なりの3・11へのダイブを果たせた御礼を直接伝えることが出来た。
そして、片腕も大分動かせなくなっている身体で、とても力強い握手をして下さり、「頑張って」と声をかけてもらった。

そして今「1★9★3★7」を読んでいる。
まだ、途中だ・・・下巻の1/3といったところだ。
「戦争と一人の女」の初日前までには読みきろうと思っていたのに、果たせなかった。
無念である。

「1★9★3★7」の中には私の知らない戦争(戦争という言葉で括れないと感じるもの)がどんどん出てくる。
そして、辺見さんの姿勢、態度はなんとも信じられないほど力強く、粘り強く、深く深く潜っていた。
帯の言葉を・・・
「父は[皇軍]という武装した群集のひとりでありつづけたのか。ただそれだけの人であったのかーこの問いは、けっきょくは、わたしならばどうしたか、どうできたのか、どうしのげたか、どうにもならなかったか・・・・・・といった作業仮説を無限にじぶんに突きつけるほかはない。そのような作業仮説をたてるには、歴史的過去と相談する以外に道はなかった。そうして書きつづけたのが本書である。」(角川文庫の「序」にかえてより)

様々な作家や作品が出てくる。
主なところでは、堀田善衛「時間」(方丈記私記も少々)や武田泰淳「審判」「汝の母を!」などである。
その中に安吾も少しだけ出てくる。
安吾が書いた、小林秀雄に対する擁護コメントや辺見さんの父親の本棚に安吾の「堕落論」があったくらいしか出てはこない。

そうなのだ、「戦争と一人の女」は、安吾という戦争にいかなかった者の話であり、
この「1★9★3★7」は戦争にいった者についての辺見さんの作業仮説が軸である。
もっと言えば、戦争で人を殺さなかったものの小説と、殺したものと向き合う作業の本ということである。

私は人を殺したことがない。その点において、「戦争と一人の女」は[わたし](または[わしたち])が戦争に触れるに至る距離として、なんとか手が届くのではないかと思っている。
(それでも、遠くに感じているのが実際だと思うが)

辺見さんはそうではない。 自身の[皇軍]であり、戦地から戻ってきて、人の変わってしまった父親をもつものとしてもとてつもなく大きな影響をおよぼしての作業仮説を無限にじぶんに突きつけつづけている。

私が触れようとした戦争とは? そのような自問は現在でも持ち続けている。

正直なところ、もっとはやく「1★9★3★7」に潜ることが必要だったと思っている。

今読んだところまででも、大量の付箋が挟まっている。
それを挙げたら切がない、それについての考えをここで言語化するには時間がない・・・

せめて、少しだけでも引かせてもらおう。






生死の生をほっぽり出して
ねずみが一匹浮彫みたいに
往来のまんなかにもりあがっていた
まもなくなずみはひらたくなった
いろんな
車輪が
すべって来ては
あいろんみたいにねずみをのした
ねずみはだんだんひらたくなった
ひらたくなるにしたがって
ねずみは
ねずみ一匹の
ねずみでもなければ一匹でもなくなって
その死の影すら消え果てた
ある日 往来に出て見ると
ひらたい物が一枚
陽にたたかれて反っていた
(山之口貘「ねずみ」 一九四三年)


「ああ、すべてが敵の悪、戦争の悪のせいだと言い切れるのだったら、どんなにいいことだろう」
(武田泰淳「汝の母を!」より)

「もし私たちがすべての人の苦痛を感じることができ、そうすべきなら、私たちは生き続けることが出来ない。」
(プレーモ・レーヴィ「灰色の領域」 『溺れるものと救われるもの』)

戦争という圧倒的な全景にあって、正気とはなにか、個人とはなにか。それは、いまはまだ“非戦争”状態かもしれないが、げんざい=日常という圧倒的な全景にあって、正気とはなにか、個人とはなにかと自問するのとおなじく、即答きわめて困難な難問中の難問なのである。

「戦争は、他者を害する以前に己の頽廃を招くところに、否定さるべき本質があるといわなければならない」
(田中眞澄著「小津安二郎周游」)

戦争とはなんだったのか。そのときそこにいなかった者たちは、そのときそこにあったできごとに無関係でいられるのだろうか。そのときそこにいなかった者たちは、そのときそこにあったできごとについて、今後も無記憶のままでいられるものだろうか。いま、ひょっとしたら、大変なことがぶりかえしつつあるのではないか。記憶の堰が決壊し、氾濫することはないのだろうか。

歴史的時間を生きるとは。
それは、ニッポンジンでも朝鮮人でも韓国人でも、自己の生身を時間という苦痛にさらし、ひるがえって、時間という苦痛にさらされた他者の痛みを想像することではないか。 (中略) からだに時間の痛みとたわみを感じつつ、自他の「身体史」を生きること-それが歴史をいきることなのか。








これらは、今回の舞台「戦争と一人の女」とは関係ないのだろうか?
切り離して、考えられることなのであろうか?

私は一個人として
一舞台人として
そして俳優個人として
これらの引かせてもらったもの以外もふくめ、浅かろうとは思うが「1★9★3★7」というボンベを背負い戦争に潜りたいと思う。

無論、舞台「戦争と一人の女」という上田作品の枠からは横にはみ出しはしない。
しかし、見えない下や上や後ろには無限の空間が広がっている。

俳優の仕事
どこまで潜れるか?


しばし眠ろうと思う。

舞台「戦争と一人の女」メモ①




春一番が吹いた日、坂口安吾の命日であった。


私はその日、脚色・演出の上田晃之と共に、今回の公演の題字を揮毫いただいた
雪妃さんの個展(2/22迄)を観に行き、帰路に着く。



私は当たり前のこととして電車にのり最寄り駅へまで電車に身を委ねる。
電車の中は、多少込み合ってはいるが、個人の自由が阻害されるほどの込みようではなく、
私は座ることは出来なかったが、私の自由によって、本を読んだ。
本の世界に入っていく。
他の乗客の存在は消えていく。

今自分がどこを通り、どの駅を通り過ぎていっているかは、気にしていない。
メトロに於いては特に、路線と地上地図が私の中で照らし合わされておらず、
気にするも何も、認識していない。
ただ自分の最寄の駅へ向かっているであろうことを信じて疑わず。
電車に身を委ねている。

電車を何度か乗り換える。
ただただ、案内と朧な記憶に従い、漠然と私は電車を乗り換え、
また電車に行き先を委ねる。

それは、最寄り駅の前の駅を出発して、間もなくであった。
運転手の運転ミスなのか否か、突如電車が強く揺れ、
乗客が一斉にドタりと重くつまづく。
その時、私の中から消え去っていた乗客たちが立ち現れ、
私は驚きと共に、背筋を凍らせた。

私はあまりにも無自覚に、電車に身を委ね、
誰とも知らない人々と共に、運命を何者かに預けている。
かりそめの自由は、電車の揺れによって、幻想であることを突きつけられ、
私は次の駅までに激しい拘束を感じた。

否応もなく私は運ばれている。
走る電車から飛び降りることも出来ず、
ただ私の運命を委ねるしかない。
もし次の駅が私の降りる駅でなかったら、
私はどうするのだろうか?
私には電車を止めるブレーキも、走らせるアクセルも持ってはいない。
たとえホームに降りられたとしても、駅が違えば、
私はまた無自覚に電車に乗り、個人の自由というようなものを貪るだろう。
そもそも私は自分の降りる駅を、電車のアナウンスなしに知ることが出来るだろうか?
私の駅・・・

ひとりびとりが立ち現れている。
その誰とも知らない、ひとりびとりを、
私はただ気配として感じている。
注視はしない、いや、する氣力がないのだ。

「ひとりびとり」の濃度が薄れていく。
茫漠とした「ひとりひとり」は「ひとびと」となり「ひとひと」になり
オノマトペへ回収されていく


私はうろたえながら、自分に問うている。
私は電車から降りる勇気があるだろうか?
または、乗らないという選択肢を知り得ているか?

電車はもう動き出している。
どうやら、乗らないという選択肢を持ち得ないまま、
私は電車に乗っている。
行き先の分からない電車に乗っている。

過ぎた後の線路を眺め、

行く先の線路を眺める。
雲行きはあやしい・・・
その鈍く重い感覚は確かに感じられる。







私は辺見庸氏の「1★9★3★7」(イクミナ)を読んでいる。
1/30日に辺見さんの講演会があり、その時にご本人と握手をし購入した文庫本だ。
その握手をした際に、去年の3/12に行った自身のイベント「5years」において、辺見さんの「瓦礫の中から言葉を」がなければ、私の表現はなかったことを簡潔に説明し、御礼をいうことが出来た。
そして、辺見さんの握手は、なんとも力強かった。
半身麻痺で癌も患い、目もずいぶん悪くなり、サインも出来る状態ではない辺見さんの握手には活力があった。
力強い、活力があった。

今年も辺見さんの「1★9★3★7」を一つの地図として、深く潜って行こうと思う。

「1★9★3★7」のことも書こうと思ったが、また別の機会にしたいと思う。






ライフワーク

 

2017年1月28日
旧暦の元旦

その日

私はヨシズミ トシオさんの幅約15mの作品の前で舞った。

2017年をはじめるにあたって、これほどの機会はこれからの人生においてそうそうないことだろうと思う。



舞わせて頂けないかと話をもちかけたのは、1週間前。

たまたまSNSをチェックしたら、ヨシズミさんの個展があるではないか!

でも、そのタイミングでよかったのだと思う。
早くもなく、遅くもなく、(実際は遅いとはおもうがww)

そして、わざわざ日程を調整して頂き、1/28に舞わせて頂くことに了承を得る。


TOSHIO YOSHIZUMI(Englishで見て下さいね)

ヨシズミさんは芸術家として本当に凄くて、私にはまだ手の届かない領域の作品を産み出す方です。
実際に世界的に評価を得てもいます。ヨシズミさんの作品が真似されたりもするほどに。

初めての出会いから10年近くになるかと思います。
私が直接つながっている本物の芸術家です。

本物・・・それはどの時代においても本物である。


それで、1週間前に、舞うことのオファーをする際に、私はこれをライフワークにしようと思い至った。
舞踊家としてのライフワークをしたいと、以前より考えており、
その考えがピタッと降りて来たのであった。

前回より、ヨシズミさんの個展で舞う準備をして臨んでおり、
それより前は、ただ個展を観に行ったら、パフォーマンスしない?って感じでやったのが2回くらいあるのかな?
そんな流れもあって、やっとそれがライフワークというところに落ちてきたのだと思う。


このライフワークには、観客がいない。
いや、観客を私は欲しない。
鑑賞者を排し
純粋に、本物の芸術作品と只々向かい合う時であり
それを十全に味わう場である。

なんとも有難く、幸福である。



ということで、そのアーカイヴをここに載せておく。
上から新しいものです。

そして、この動画をとり編集しアップしてくれたa ri A Ru Creationzに感謝を捧ぐ。





















続きを読む

ー YOJYO -メモ  2016/10/15 パフォーマンス@古河

 




・・・ YOJYO・・・

よじょう

 ヨジョウ 

・・・余剰・・・余情・・・

余剰価値、余剰金、余剰人員、余剰農産物、余剰地、余剰分析、余剰在庫、余剰残高、余剰食糧、余剰電力、余剰戦力、余剰買取、消費者余剰、生産者余剰、社会的余剰、余剰容積率、余剰在庫、余剰汚泥、
余剰空間
余剰次元

余剰溢れる時代・・・

余情表現、余情妖艶、余情幽玄、花鳥余情、余情残心

余情失われし時代・・・




上に挙げた余剰熟語の「余剰」を「余情」にすりかえてみる

・・・すると素敵な世界に変容す!




余剰が不足を生み出して

余情が不足を潤した








ーYOJYOー第48回"a ri A Ru Creationz" The Art Project@コガミライ文化祭2016 ~Sozo世界を旅行する~


今回のYOJYOを切欠に 

改めて
現代における「余剰」の膨大さにため息をつき

「余情」の芸術表現の奥深さに感嘆した



「余剰」に於いては、すぐさま「足るを知る」を思い出す

そもそもこの世界に「余剰」など無いのだと思う

ある囲われた世界の視点によって便宜的に表現される概念に過ぎない「余剰」

便宜的にいうならば、「余剰」は「不足」によって支えられている

質量保存の法則ではないが

自然はいつも自然に帰ろうとする

その中で「余剰」を不自然さと便宜的に言い表すなら

不自然さを自然になじませていくことが自然なのだ

故にどんな不自然さも結局は自然に改修されていく

その自然の働きに抗うのか?沿うのか?

その岐路に人類は今二分されていっているように感じる



私は自らの体験や経験や感覚から

自然の働きに沿う道を歩み初めて約15年・・・

まだまだ自然の働きの入り口しか知らないが

その果てない豊かで生き生きした世界を

主に身体、躰、體、身を通して

途方に暮れながら 

にやけ

心地よく

驚きをもって


歩んでいる



かつての歌人達が愛でた「余情」

今はもうほとんど消えかかっているかそけきその「余情」の起こりを


我が身の深淵の今に糸を垂らしながら

ーYOJYOーの中に身を集注させたいと思う













余剰の無情


余情の無常


人間途上


諸行へ愛情








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プロフィール

Yasuchika Konno

Author:Yasuchika Konno
金野泰史
舞踊家/俳優/生躰研究家


1999年俳優を始め、2003年から舞踊(舞踏)・俳優・パフォーマンスアーティストとして活動を開始。音楽家、美術家、写真家など他ジャンルのアーティストとのコレボレーションも多々行う。
底辺から頂点に自身が日々稽古して探求する中で捉えた身体観、身体感覚を通しての表現を追求している。
2009年パフォーマンスグループ【KIUNJI】(キウンジ)を立ち上げる。現在は芸術企画【KIUNJI】としている。
また生躰研究家として「身体との付き合い方WS」も定期的に開催している。

このサイトでは、金野泰史、【KIUNJI】企画の公演情報や自身のステイトメント、また生躰研究家としての身体観や考え方をブログ形式でお知らせします。


公式サイトはこちら



金野泰史 稽古会 WorkShop(or lesson )案内はこちら


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