9/2,3 舞踊家 金野泰史としての、初にして最後のソロ舞台

 
今年に入ってから、いや去年の年末辺りからだったと思う。
朧げに自身のソロ公演を打とうと考えていた。
その時から既に、舞踊家 金野泰史としての最後のソロにしようと思っていたと思う。

今年で40歳。
30代を締めくくろう。
そんな風に身の奥の方からの想いが湧いてきていた。

「危機感」
これが、そう想わせる切欠として大きくある。
去年の初めから、「自分ごと」として、とても強く抱き始めた。
自分の人生に対しても
同義として、自分の生命に対しても
それはまた人間の生命に対しても
生命そのものに対しても
抱き始めた「危機感」だ。
それはまるで時代の要請のようにも感じながら・・・

「3・11」
がなければ、この「危機感」は発生していなかったようにも思う。
いや、「3・11」によって発動させてもらったのだと言っていいかもしれない。
「3・11」より前に、「危うさ」は感じていた。
身体を通じて、「生」について、人間の在りようについて学び、稽古し始めてから自身の中で明示されてきた「危うさ」
もっとその「危うさ」の兆しを抱き始めた時期を過去に探れば、今思いつくのは小学3,4年の頃からだと思う。
テレビやアニメや漫画の影響は強いと思う。
ノストラダムスとか、世紀末論の影響・・・
人類規模、地球規模の終焉への恐怖、危うさ。
そのような想いが、私の中で消えることなく抱かれたまま「3・11」を経て
より具体的に、実感をもって「危機感」という言葉、状態として発動したのだと
振り返れば、振り返るほど紐づいてくる。


30歳代を締めくくりたい。
30代に終止符を打ちたい。
40代を30代の地続きで迎えたくない。
「終止符」
それは、自分で選択する人生
自分に主導権を取り戻した人生
を40代から送るための、自分の「準備」であり「けじめ」だ。

39年間
私は生き続けてきた。
私は生かされ続けてきた。
それは、同時に
「私は死に続けた」ということ
その死に続けた39年をしっかりと供養する
いや、供養したいのだ。
生前葬
そうしなければ、40代を迎えられない・・・

何故そこまでそう思うのかは自分でも分からない。
そう要求しているとしか言いようがない。
だから、その要求に十全と答えようとしているだけに過ぎない
自分の人生を「自分ごと」で生きるために

大げさに聞こえるかもしれないが、
人生を賭ける行いとして
私は今回のソロを位置づける
そうしなければ、
死に続けた39年間を供養できないし成仏できない

そして供養し成仏することは、
39年間私を生かしてくれた、あまたの生命
そして人、
両親から始まり、その紐付いている先祖、家族、友人、師匠、先生、知人、縁を結んだひとりびとり
への「礼」であり、「恩返し」に繋がる
私はそう考えるし、感じる。

その「姿勢」を表すためのソロ舞台、ソロ公演として私は位置づける
「舞台」とは私にとってそれに耐えうる時空だ。

タイトルは「姿勢」
それは「死生」を内包している

どう明記するかはまだ決定していないが、「しせい」であることは揺るがない。


ひとつの見方をすれば

舞台という機構の中でただの我がままを行うだけとも言える
それでいいと思っている
だから、我がままを貫こうと思う
そう肚を括った。

だから、私と縁を結んでくれた方々には
「観に来てほしい」
というより
「立ち会って欲しい」「立ち会って頂きたい」
という方がしっくりとくる。

舞踊家 金野泰史
いや、舞台人 金野泰史、芸術家 金野泰史としての
初にして最後のソロ
是非のお立会い、よろしくお願いします。

 
※詳細は追って告知していきたいと思うので、お待ち下さい。
9/2(土),3(日)の二日間で一公演ずつの予定です。


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「自由」と「自在」

 

ふと思いついたことを記していこう。
「直感」のようなものを感じる。
まとめることなく、備忘録として。
それをこのブログで挙げる必要もないとは思うが、自分でも後から探しやすいかもとか考え。
とはいえ、この外部記憶装置に対する信用度は低い。
こんなところに残しておいたところで、電気がなければ観られなくなるし、何かしらの規制がかかってきたら、ドボンだ。

それらのことを踏まえて、ただアウトプットしておくために、儚い記憶として。




シャワーを浴びながらふと思った。

「自由」は誰にでも既にあるものだ。

「自由」という言葉がもてはやされて、どれほどたつのだろうか?
最近では「共謀罪」などが、この言葉がよくよく取りざされる切欠となっている。

そんなこんなで、「自由」は既に誰にも平等にある。
それは、この言葉の文脈に於いてからもそう思う。

「生きる道は天によって完璧に決まっていて、それが故に、完全に自由だ」

これは、漫画バガボンドにも出てくる沢庵和尚の台詞とのこと。

元は甲野善紀さんの
『人間の運命は完璧に決まっていて、同時に完璧に自由である』
だと思うのだが、違う? まあ、そこはよくないけどいいとして。
(甲野さんの言い回しのほうが、「同時」ってのが入っていて好き)
このブログでもこの言葉は取り上げたことがあるけどれ、それはいいとして・・・

とまあ、こういう文脈において「既に自由」であるという前提があると私は思ったわけだ。
無論、色々な環境がある。
シリアの内戦に巻き込まれている市民の人たちとか、昔で言えば、強制収容所とか、その辺りのことも踏まえたうえでの、
「既に自由である」「自由でなかったためしはない」でもいい。

で、ここから。

上記のことから、「自由」を求めること自体が、おかしな話ということだ。
問題は「自在」

「自由自在」という言葉があるが、これは不可分な言葉だと思った。
問題にするのは「自在」の方。

では、「自在」とはどういうことかというと、
それは「自分の人生の主導権を自分に取り戻す」ということ。

そして、それには意志力と覚悟が必要だということ。


この考えは、まだまだ更新されていくと思うが、今の私がふとそう思ったということ。






自分ごと


随分とブログを書いてなかった。

これはブログに残しておこうと思ったことが、忘れ去られていっている(笑

その中でサクッと思い出したものを書き残しておこう。





「自分ごと」

今年に入ってからだ。
そう「戦争と一人の女」の稽古に入っていた。
去年の4月からはじめた武術でよく言われていたことで、
「自分ごととしてやる」ということ

これ、字面だけでいったらなんとも当たり前のことなんだし、
私が身の基礎として培ってきた身体観の師匠からも、「最後は自分」「自分でやるのよ」「『ひとり』でやるのよ」・・・なんかマッチする言葉が思い出せないが、「自分ごととしてやる」と同じニュアンスのことは13.4年言われ続けてきたわけだ。

それで。 それがやっと「そういうことか!」って分かったわけですわ。

まあ、武術だと分かりやすいのですが、「自分ごと」の説明としての例え話、シチュエーション話で、
武術は戦うわけです。
そして、どんなに素晴らしい師匠に付いていようが、どんなに強い師匠に付いていようが、最後に戦うのはその人自身。
立ち会う場に師匠がいようが、直前まで師匠の指導やアドバイスを受けようが、最後に戦うのはその人自身。

これも、文として理解できることと思いますが、これとっても切実な話なんですわ。
武術で戦ういうたら、死ぬわけです。殺めるか殺められるかだけですわ。
これ以上切実なことないですわ。
ということで、稽古を「自分ごととしてやる」ということです。 
というか、自分ごととしてやれていないと何を知ってようが、どういう稽古をしようが、どういう何があろうが、いざという時に使えんわけです。 やってきたように見せかけてきたものが、何も使えない。
その使えなさを、戦うときに気付いても、まあ遅いわけですな。

そういうことなんです。 って言ってもコレぜんぜんピンとこないんだと思いますわww。 
私も10年以上かかって、そこそこ切実に真剣に本気で稽古してきた自負はありますが、そういう俺がやっと気付いたわけです。
(まあ、この気付きもまだ第一段階かもしれませんが)

で、ここからちょっと飛躍すると、この「自分ごととして取り扱えない」現象ってどっから来てるのかって思うとですね、
「人生と身体を別々にしている」って感覚なんです。
それをよくよく培ってくれているのが現代医療です。
いろんなマシーンがあって、高ければ高いほどそのマシーンが治してくれると誤認するわけです。

これは論理的に考えても、私のような身体観的に考えても、病を治すのは「最後は自分」なわけです。
これ真実です。いや現実です。
誰も、自分を治せません。 誰かによって、もちろん切欠は与えられます。環境も条件も与えられます。
でも「最後は自分」なんですわ。

ということです。

「自分ごととしてやる」

ちょっと追加して言うと、「人生と身体は切り離せない」※注)論から言うと、
身体を自分から切り離しているイコール人生と自分を切り離しているってことでもありますな。
この辺のことについて、最近取り組んでいるので、あ~だこ~だ言えませんが、そういうことです。






ということで。


※注:私はよくよく身体や身という言葉を使うが、これは生命、生と不可分なものであり、生と身体が重なっているから、生活が出来ており、現世に存在しておりということなので、相手にしているのは生と身体が重なっているものを、身体や身や躰やらと呼んでおりまして、生が抜けているものは死体と明記します。
体より躰やら身体やら身と書いているのは、「人の本」ってより「身の本」の方が何を取り扱おうとしているのかがニュアンスとして届くだろうし、「体」だと世間に流布されているイメージが自分の「躰」とはかけ離れているから差別化している次第です。

こんなところで。

明日の公演完売致しました。 金野泰史出演、舞台「戦争と一人の女」案内 3/10~3/12

 


なんとも有難いことに、
明日の2公演共に満席となりました。
せっかく予約連絡を頂いたにも関わらず
席を案内出来なかった皆様
申し訳ありません。

そして、ご予約頂いた皆様方
誠にありがとうございます。
貴重な時間を共有して下さることに感謝致します。
それでは、明日劇場にてお待ちいたしております。




そして、10日11日と
貴重な時間を共有して頂いた皆様方
取り急ぎではありますが、
御来場誠にありがとうございました。








舞台



 「 戦争と一人の女 」






戦争はほんとに美しい

 
もっと戦争をしゃぶってやればよかったな



(坂口安吾『戦争と一人の女』より)


昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する作家のひとりである坂口安吾による短編小説『戦争と一人の女』を原作に、男性1人、女性4人のキャストを迎え、劇作家/演出家/役者として活動する上田晃之が、舞台作品として構成/演出します。


【公演概要】

タイトル:「戦争と一人の女」 原作:坂口安吾

構成/演出:上田晃之

出演:金野泰史、長澤しずか、祭美和、森衣里、竹中めぐみ


公演期間:2017年3月10日(金)~2017年3月12日(日)

公演スケジュール (全6回公演)

3/10(金)[昼]:15時開演(プレビュー)/[夜]:20時開演

3/11(土)[昼]:14時開演 /[夜]:19時開演

3/12(日)[昼]:13時開演 /[夜]:17時開演

※開場は開演時間の30分前


会場:APOCシアター

東京都世田谷区 桜丘5-47-4 (小田急線千歳船橋駅より徒歩2分)


STAFF

舞台監督:大橋律子 
照明:株式会社MOON LIGHT 
音響:Bo-z Exp 
映像:アベユウナ 
音楽:大西穣 
舞台美術:今井祥子/木嶋美香 
衣装:金田かお里 
題字:白石雪妃 
宣伝デザイン:山田真介 
宣伝写真:kaesan 
制作:大橋律子/木嶋美香/丹沢美緒 
協力:喫茶茶会記/マリエ・エンタープライズ/(株)ビジョン・ファイブ/滝口敦子/樋口和歌子/原龍之介 他 


料金:予約3500円、当日4000円、プレビュー3000円 
 ※全公演全席自由

チケット取扱:公演HPの予約フォームにて
金野用予約ホーム



SNS


主催:上田晃之 

問い合わせ先:hitorinoonna2017@gmail.com




チラシ表 戦争と一人の女_convert_20170210005008 







チラシ裏 戦争と一人の女_convert_20170210005049 




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舞台「戦争と一人の女」メモ②

 

3・11を舞台で迎えた。
3・11以降それは初めてのことだった。
3・11が起きた時は、舞踊での舞台の本番二日目の劇場に向かう前であった・・・

去年は「5years」というArtEventを3/12に自身で主催した。
私も無論のこと出演した。
その時、私がテキストというか、3・11に潜るための道案内として辺見庸さんの「瓦礫の仲から言葉を」を使わせてもらった。
辺見さんの詩「眼の海」も、舞台の中で朗読させてもらった。
その時のことにご興味ある方は、
こちらを(この記事の前後にも「5years」関連の記事はあります。これなど

そして今年の1月末に、辺見さんの「1★9★3★7」の文庫本発売記念?講演会に行くことが出来、辺見さんに直接「5years」で、辺見さんの「瓦礫・・・」のお陰で、自分なりの3・11へのダイブを果たせた御礼を直接伝えることが出来た。
そして、片腕も大分動かせなくなっている身体で、とても力強い握手をして下さり、「頑張って」と声をかけてもらった。

そして今「1★9★3★7」を読んでいる。
まだ、途中だ・・・下巻の1/3といったところだ。
「戦争と一人の女」の初日前までには読みきろうと思っていたのに、果たせなかった。
無念である。

「1★9★3★7」の中には私の知らない戦争(戦争という言葉で括れないと感じるもの)がどんどん出てくる。
そして、辺見さんの姿勢、態度はなんとも信じられないほど力強く、粘り強く、深く深く潜っていた。
帯の言葉を・・・
「父は[皇軍]という武装した群集のひとりでありつづけたのか。ただそれだけの人であったのかーこの問いは、けっきょくは、わたしならばどうしたか、どうできたのか、どうしのげたか、どうにもならなかったか・・・・・・といった作業仮説を無限にじぶんに突きつけるほかはない。そのような作業仮説をたてるには、歴史的過去と相談する以外に道はなかった。そうして書きつづけたのが本書である。」(角川文庫の「序」にかえてより)

様々な作家や作品が出てくる。
主なところでは、堀田善衛「時間」(方丈記私記も少々)や武田泰淳「審判」「汝の母を!」などである。
その中に安吾も少しだけ出てくる。
安吾が書いた、小林秀雄に対する擁護コメントや辺見さんの父親の本棚に安吾の「堕落論」があったくらいしか出てはこない。

そうなのだ、「戦争と一人の女」は、安吾という戦争にいかなかった者の話であり、
この「1★9★3★7」は戦争にいった者についての辺見さんの作業仮説が軸である。
もっと言えば、戦争で人を殺さなかったものの小説と、殺したものと向き合う作業の本ということである。

私は人を殺したことがない。その点において、「戦争と一人の女」は[わたし](または[わしたち])が戦争に触れるに至る距離として、なんとか手が届くのではないかと思っている。
(それでも、遠くに感じているのが実際だと思うが)

辺見さんはそうではない。 自身の[皇軍]であり、戦地から戻ってきて、人の変わってしまった父親をもつものとしてもとてつもなく大きな影響をおよぼしての作業仮説を無限にじぶんに突きつけつづけている。

私が触れようとした戦争とは? そのような自問は現在でも持ち続けている。

正直なところ、もっとはやく「1★9★3★7」に潜ることが必要だったと思っている。

今読んだところまででも、大量の付箋が挟まっている。
それを挙げたら切がない、それについての考えをここで言語化するには時間がない・・・

せめて、少しだけでも引かせてもらおう。






生死の生をほっぽり出して
ねずみが一匹浮彫みたいに
往来のまんなかにもりあがっていた
まもなくなずみはひらたくなった
いろんな
車輪が
すべって来ては
あいろんみたいにねずみをのした
ねずみはだんだんひらたくなった
ひらたくなるにしたがって
ねずみは
ねずみ一匹の
ねずみでもなければ一匹でもなくなって
その死の影すら消え果てた
ある日 往来に出て見ると
ひらたい物が一枚
陽にたたかれて反っていた
(山之口貘「ねずみ」 一九四三年)


「ああ、すべてが敵の悪、戦争の悪のせいだと言い切れるのだったら、どんなにいいことだろう」
(武田泰淳「汝の母を!」より)

「もし私たちがすべての人の苦痛を感じることができ、そうすべきなら、私たちは生き続けることが出来ない。」
(プレーモ・レーヴィ「灰色の領域」 『溺れるものと救われるもの』)

戦争という圧倒的な全景にあって、正気とはなにか、個人とはなにか。それは、いまはまだ“非戦争”状態かもしれないが、げんざい=日常という圧倒的な全景にあって、正気とはなにか、個人とはなにかと自問するのとおなじく、即答きわめて困難な難問中の難問なのである。

「戦争は、他者を害する以前に己の頽廃を招くところに、否定さるべき本質があるといわなければならない」
(田中眞澄著「小津安二郎周游」)

戦争とはなんだったのか。そのときそこにいなかった者たちは、そのときそこにあったできごとに無関係でいられるのだろうか。そのときそこにいなかった者たちは、そのときそこにあったできごとについて、今後も無記憶のままでいられるものだろうか。いま、ひょっとしたら、大変なことがぶりかえしつつあるのではないか。記憶の堰が決壊し、氾濫することはないのだろうか。

歴史的時間を生きるとは。
それは、ニッポンジンでも朝鮮人でも韓国人でも、自己の生身を時間という苦痛にさらし、ひるがえって、時間という苦痛にさらされた他者の痛みを想像することではないか。 (中略) からだに時間の痛みとたわみを感じつつ、自他の「身体史」を生きること-それが歴史をいきることなのか。








これらは、今回の舞台「戦争と一人の女」とは関係ないのだろうか?
切り離して、考えられることなのであろうか?

私は一個人として
一舞台人として
そして俳優個人として
これらの引かせてもらったもの以外もふくめ、浅かろうとは思うが「1★9★3★7」というボンベを背負い戦争に潜りたいと思う。

無論、舞台「戦争と一人の女」という上田作品の枠からは横にはみ出しはしない。
しかし、見えない下や上や後ろには無限の空間が広がっている。

俳優の仕事
どこまで潜れるか?


しばし眠ろうと思う。

プロフィール

Yasuchika Konno

Author:Yasuchika Konno
金野泰史
舞踊家/俳優/生躰研究家


1999年俳優を始め、2003年から舞踊(舞踏)・俳優・パフォーマンスアーティストとして活動を開始。音楽家、美術家、写真家など他ジャンルのアーティストとのコレボレーションも多々行う。
底辺から頂点に自身が日々稽古して探求する中で捉えた身体観、身体感覚を通しての表現を追求している。
2009年パフォーマンスグループ【KIUNJI】(キウンジ)を立ち上げる。現在は芸術企画【KIUNJI】としている。
また生躰研究家として「身体との付き合い方WS」も定期的に開催している。

このサイトでは、金野泰史、【KIUNJI】企画の公演情報や自身のステイトメント、また生躰研究家としての身体観や考え方をブログ形式でお知らせします。


公式サイトはこちら



金野泰史 稽古会 WorkShop(or lesson )案内はこちら


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